65年前のできごと


9. 被爆地になってしまった都市


昨夜は、Last.fmという音楽系SNSサイトでパラグアイ人とチャットしてました☆
彼女は首都アスンシオンの人で、オリンピア(サッカークラブ)を応援しているとのことです。因みに日本人プレイヤー廣山がかつて所属していたクラブは同じアスンシオンにあるセロ・ポルティーニョ。
覚えたてのスペイン語を使ってみつつ、コミュニケーションすることができました。

地球の裏側の人と好きな音楽を通じて知り合って、仲良くなれるなんて楽しいですね☆


さて、今回はとっても重たい話です。

長崎について決して忘れてはいけない事。
それは、長崎は原子爆弾が投下されてしまった都市だったことである。

実は、広島に次ぐ第2の原爆投下予定地は福岡県小倉市だった。
しかし、撮影班のB29とはうまく合流できず、さらに日本軍の迎撃に遭い長崎に向かった。しかし長崎上空には積雲があり視界不良だった。

もし目標地点に投下出来なければ、海洋投棄する予定だった。
しかし、11時2分。僅かに雲の切れ間から長崎の街並みが見えた。
そして、広島型原爆の1.5倍以上の破壊力を持ったプルトニウム式原子爆弾が投下されてしまった。
(私の記憶で書いています。もし間違えていたら、ごめんなさい。。。)


ここは修学旅行時にも訪れたことのある「平和祈念像」
不謹慎な物言いかもしれないが、刑務所跡地に建てられた「西洋的な像」のどこに平和祈念の意があるのだろうか?(そしてここは爆心地ではない)


ここは大浦天主堂で、日本最大のカトリック聖堂。
広島の原爆ドームのように瓦礫のまま保存されていたが、1958年アメリカの地方都市と姉妹都市提携を結ぶために、当時の市長が対米感情を考慮して保存を決定した長崎市議会決議を無視して強引に撤去されてしまった。
テーマパークのように綺麗な教会の建物の脇にひっそりと保存されているキリスト像及び瓦礫。
不気味なほど違和感を感じる。


この像は大浦天主堂にある「原爆」に耐えたアジアンチックな偶像。
異国文化が入り混じった「長崎」ならではの偶像だな、と勝手に解釈。


ここは爆心地公園にある落下地点の石碑。
ここで炸裂した原子爆弾は、浦上地区を一瞬にして壊滅させた。しかし、周囲を山で囲まれた地形の為、長崎市中心地の被害は比較的軽微だったとのこと。

また、もし予定通りに小倉市に投下されていたら、小倉市周辺はもとより、関門海峡を越えて山口県下関市まで被害が及び、尋常でない犠牲が伴ったのでは?と予測されている。


とはいえ、広島型原爆以上の破壊力をもった爆弾が投下された大浦地区の被害の凄まじさは想像にしがたい。
上記写真は、爆心地公園に保存されている大浦天主堂の遺構。


これは通称「一本足鳥居」
爆心地から900m離れた場所に山王神社があった。
参道にあった合計4つの鳥居のうち3つは爆風により損壊したものの、弐の鳥居が奇跡的に片足のみ残った。


そして、山王神社境内にあるクスノキの鳥居。
この木も原爆の熱線で、黒焦げになってしまい枯れ木と化したが、長い戦後の年月を経て、緑生い茂る大木に戻った。(写真は1本のみの撮影だが、実際は2本です)

自然の生命力の強さを感じることができたと同時に、月並みな表現だが長崎が「最後の」核爆弾による被爆地であってほしいと願う。


残念ながら原爆や戦争についての教育を刷り込まれたのは小生の時代が最後なのかもしれない。

毎年、学校で太平洋戦争関連の上映会が催されていたり、被爆者の惨状を生々しく伝えるテレビ番組が毎年8月には必ず放映されていたりしていたが、ソ連民主化に伴う冷戦構造崩壊以降、殆ど(政治的に?)上記のような番組は放映されなくなってしまった。

そして時を経て、いつの間にか65年前の出来事となってしまった。

2010年の8月9日。
日本国民、そしてボクはこの日をどのように想い、そしてどのように過ごすのであろう?

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