武蔵‐氷川Ley Line(レイライン)を進め -1 武蔵國一宮 氷川神社

武蔵~氷川神社ラインを訪ねてみた

1. 武蔵國一之宮 氷川神社 社殿

(埼玉県さいたま市大宮区高鼻御鎮座)



ボクは地図を「読む」のが好きだ。
特に標高図を見ると、人類の流れが垣間見れて楽しい。
例えば、現在の海抜6mを塗りつぶせば、縄文時代の頃の海岸線が見えてくるし、地名の意味と併せて考えていると、なかなか時間潰しになる。

さて、Google Mapで作ってみたこの表。
「氷川神社ライン」と勝手に呼んでいる一本の線は、氷川神社(主祭神:須佐之男命・・・スサノオ) - 中山神社(主祭神:大己貴命・・・オオナムヂ。スサノオの子孫) - 氷川女体神社(主祭神:稲田姫命・・・イナダヒメ。スサノオの奥さま)が、一本の線で結ばれている。

氷川神社の位置は、かつての見沼の畔であり、氷川神社の神池は見沼の名残で、もともと氷川神社は見沼の水神を祀ったことから始まったと考えられている。

そして、この三社が男体社・女体社・簸王子社として一体の氷川神社を形成していたらしい。
これは現在も残る『さいたま市緑区三室』の地名の由来にもなっている。

おお、近所に何てミステリーな!

・・・ということで、このミステリーの地を巡礼して、謎を紐説いていきたいと思う(笑)


より大きな地図で ☆氷川3社レイライン☆ を表示

まずは、武蔵國一宮とされている氷川神社から。
この鳥居は二の鳥居で、すぐ近所に大宮図書館がある。

元々は明治神宮の鳥居だったが、落雷によって破損してしまい、ここ氷川神社に移設されてきたとのこと。

由緒ある神社の旧社殿が建て替えの際に出た端材は、捨てることなどせずに、他の神社の材料として再使用される。太古の昔から日本人はエコロジーな民族だったのだな、と改めて御先祖様に敬意。

社伝によれば、孝昭天皇3年(紀元前473年)4月に創立された。
また、「国造本紀」によれば、景行天皇の代に出雲の氏族が須佐之男命を奉じてこの地に移住したと伝える。

本社には、景行天皇の皇子・倭建命が東征の際に負傷し、夢枕に現れた老人の教えに従って当社へ詣でたところ、立てるようになったという伝説が残されており、このことから本地域を『足立』と称するようになったとされる。

成務天皇の時代に出雲の兄多毛比命(エタノヒノミコト)が武蔵国造となり、社名の氷川は、出雲肥河(斐伊川)の川上に鎮座する杵築大社(出雲大社)からの勧請によるもの。
この一帯は出雲族が開拓した地であり、武蔵国造は出雲国造と同族とされる。社名の「氷川」も出雲の「肥河」(現在の斐伊川)に由来している。


ここは神池。
神橋は、七五三の参詣客でごっただえしている。

そして、本殿へ向かうべく楼門へ。
煌びやかな門構えですな。

氷川神社は、平安時代以降に実質支配していた武士に篤い信仰を受け、合戦の前後には戦国武将が参拝する姿が後を絶たなかった程だったらしい。

一般に武蔵国の一宮は当社とされているが、大國魂神社(六所宮)の祭神や南北朝時代での記述では、多摩市の小野神社を一宮、あきる野市の二宮神社(旧称小河大明神)を二宮、氷川神社を三宮、そして二宮とされている埼玉・金鑚神社は五宮としていた。(因みに武蔵國総社宮である「大國魂神社」の御由緒にも、上記のように記載されている)

そして、楼門をくぐって境内へ。
七五三の御参詣や、御祈祷、そして結婚式等々・・・日曜日なだけあって、(都市部だからか)多くの参拝客で賑わっていた。

これが拝殿。
氷川神社の規模、武蔵國一宮の社殿としては、少々小じんまりとしているが、それもまたよし。

社殿は治承四年(1180年)に源頼朝が社殿の再建を命じて、文禄五年(1597年)には徳川氏が、伊奈備前守忠次に命じて社頭残らず造営させ、寛文七年(1667年)3月 には社殿の建立をした。

その後、明治元年(1868年)東京遷都に際し、当社を武蔵国の総鎮守「勅祭の社」と定めら れ、明治天皇みずから親拝になった。同四年官幣大社となり、同十五年に本殿・拝殿などを改造し、さらに昭和15年6月に本殿・拝殿・回廊などを造り変え、現在の流造りの景観となっている。

ここは舞殿。
両脇の巨木に触ってエネルギーを蓄えてきました。


舞殿から楼門を眺める。
とっても良い眺め!

次回は、氷川神社の摂末社と、その謎に迫ります^^

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