武蔵國探訪記 -6 「北野天神社」


武蔵國探訪記 -6
「北野天神社」

(埼玉県所沢市小手指元町3-28-44鎮座)

西武池袋線小手指駅からバスで約15分揺られると、「北野天神社」に到着。
旧鎌倉街道上道沿いに鎮座されている。

「北野天神社」社頭。
参拝日は雨が降り出してしまったが、逆に霧がかった空気が「神域」のように感じてしまう。
紅く染まった木々と鳥居、その先に続く参道が何ともいえない♪

二の鳥居。
扁額には『北野天満宮』と書かれている。
濡れた石畳、先まで続く石燈籠、雨の雫を浴びて気持ちよさそうな木々。
とても良い雰囲気である。

そして拝殿。
さて、「北野天神社」は、埼玉神社庁の正式登録名は『物部天神社、国渭地祇神社、天満天神社』とされている。よって「北野天神社」は通称なのかいな?

ここで、北野天神社の社略記を・・・。

所沢市大字北野字吉野鎮座

御祭神
櫛玉饒速日命 (延喜式内 物部天神社)
八千矛命 (延喜式内 国渭地祇(クニイチギ)神社)
菅原道眞公 (天満天神社)

総称 北野天神社

合祀
宇良親王、小手指明神、天穂日命、応神天皇、日本武尊、倉稲魂命

当社は、日本武尊東征のおり創建したと伝えられ、物部天神社・国渭地祗神社ともに 延喜式内社です。
一条天皇の御代に菅公五世の孫武蔵国司菅原修成が勅命を奉じて、京都の北野天神社より、菅公の分霊を勧請して、坂東第一北野天満宮と定められたと云われています。
長徳元年(995年)のことであり、この時から北野と呼ぶようになったと伝えられます。

その後、源頼義、義家、奥州追討の宿願によって、総社を建立し、更に建久6年(1196年)9月に源頼朝が正八幡宮を勧請して、総て九社を修造し、同時に一宇を建立し延喜式内の諸神を祀り諸神堂と称し、この時の大宮司は上毛野元重、社領は二百貫文増加され二千二百貫文になりました。

本殿
その後、建武・延元の戦乱に兵火に罹り、延文元年(1356年)足利尊氏が諸社を建立しましたが 、再び罹災、後に加賀守大納言利家公が社殿を再興し、菅公御自筆の法華経、宗近の太刀、黄金二百枚を献納し、武運長久を祈り、境内に梅一本を献栽したので、今も大納言の梅として保存されています。

徳川幕府になって、家康は、宮司栗原右衛門太郎を召出し、伊勢守(社寺を管理する神官)に任じ、繁栄したと記されています。

境内は、現在よりはるかに広く、多くの末社諸神堂があり、天保年間(1830~1843年)の天神社絵図によりますと、東西及び北側に二十五社描かれております。

諸神宮

当社殿は室町期の再建である。
源頼朝が建久六年九月延喜式内総社(三千百三十二座)を勧請したので、諸神宮と奉称し家光将軍により諸神宮領の寄進状が現存する。
(境内案内板より)


次回は武蔵國シリーズハイライト
「らき☆すた」な社です!

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