キノミヤを追いかけて-5 伊豆山神社 (1) 赤龍・白龍伝説の社


キノミヤを追いかけて
5- 伊豆山神社 (1) 関八州総鎮護の社

(熱海市伊豆山上野地708番地1御鎮座)

小田原~真鶴半島を抜けて、いよいよ伊豆国の玄関口である「東洋のナポリ」こと熱海へ~。

ちなみにこの写真は川勾神社近くで撮った写真です。

富士山の近くにある「フィリピン海プレートの北端」熱海駅からバスで山道を登ること約15分程で伊豆山神社の社頭に到着。
ここはバス停付近の石鳥居。

参道(石段)に咲くあたみ桜。
可愛いお花達は、疲れた身体を癒してくれます☆


石鳥居の先にある石段を登ると、二の鳥居が。
さらに石段は続く・・・。

ようやく石段を登り切ったところで境内が・・・。
広々としていて、とても心地よい空間。


紅白の龍が並んだ手水舎。

由来としては、

『伊豆山神社の縁起「走湯山縁起」に拠ると、伊豆山の地下に赤白二龍交和して臥す。
其の尾を箱根の湖水(芦ノ湖)に漬け、その頭は日金嶺(伊豆山)地底に在り。
温泉の沸く所は此の龍の両眼二耳並び鼻穴口中なり(走り湯)
二龍精気を吐き、赤白海水に交わる。二色浦(熱海錦が浦の名の由来)は此を謂うなり。
赤は母親、白は父親を現す。』
(以上、案内板より)

⇒それを現代風に訳すと・・・

『「走湯山縁起」によると、伊豆山の地下に赤白の龍が交わっていて、尾は箱根芦ノ湖の湖水に浸かっていて、頭は伊豆山地底にある。
二龍は湯が沸き立つ程ラブラブ♡で、龍の両目や耳、鼻の穴から口から温泉が沸きだす程に、アツアツ♡なのであーる!』

こんな感じでしょーか^^

この辺で御由緒を・・・

御祭神 
伊豆大神 (天忍穂耳尊(あめのおしほみみこと)・拷幡千千姫尊(たくはたちぢひめのみこと~天忍穂耳尊の妻)・瓊瓊杵尊(ににぎのみこと))

(*火牟須比命(ほのむすひのみこと)、伊邪那伎命(いざなぎのみこと)、伊邪那美命(いざなみのみこと)とも言われている)

由緒

当社は古来伊豆大権現、走湯大権現と呼ばれておりましたが、明治になって現在の社名に改称されました。
創立の年代は、悠久の昔であって確かな記録は残されておりませんが人皇第五代孝昭天皇の御代(紀元前5世紀~4世紀)と伝えられております。

社伝によると、当社は最初、日金峯(岩戸山、日金山一帯を刺す)に鎮まり、次いで本宮山に移り、三遷して現在地に御鎮座になりました。伊豆の地名の由来も当社が発祥の地であります。

人皇十六代仁徳天皇が勅願所となされてより、二十二代清寧、三十代敏達、三十三代推古、三十六代孝徳、百五代後奈良と六朝の天皇の勅願所となり、孝徳天皇の御代に正一位の神階を送られ、後奈良天皇は御宸筆の心経一巻(昭和二年国宝指定、現重文)を御奉納になられ、国土安穏と万民の和楽を御祈願になられております。

猶当社は明治以前においては、久しく神仏習合の社であって、役小角をはじめ、弘法大師、多くの山嶽仏教徒や修験者が入峰して、 修行を積んだ霊場で、後白河院の御撰に成る粱塵秘抄に「四方の霊験者は、伊豆の走湯(伊豆山神社を指す)信濃の戸穏、駿河の富士山、 伯耆の大山。」と著され、東国、東海における第一の霊場として聞こえていたことが知られます。

本殿

平冶の乱後、平家の手により伊豆国に配流の身となっていた、源頼朝が源家再興のことを当社に祈願し、後鎌倉に幕府を開くに及んで、 驚く当社を崇敬し、箱根とともに二所と称えて、幕府最高の崇敬社として関八州鎮護とされ、社領四里四方、海上見渡す限りの外に、鎌倉、室町期を通じて、多数の社領を各地に所有していたことが、吉野時代の文章「寺領知行地注文」に記されておりますが、 その所領範囲の広大であったことは実に驚くべきもので、当社の最隆昌期における状況を示しております。
(以上、略記より抜粋)

尚、本神社は延喜式の『火牟須比命神社』に比定されている。


境内から見下ろした石段。
石鳥居、バス停の先、海岸まで延々と参道は続いている。


次回は摂末社と伊豆山神社のふしぎ発見です☆

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