帝都の社 : 神田神社 ~ 江戸総鎮守


帝都の社
2 神田神社 (神田明神)
(東京都千代田区外神田2-16-2鎮座)


山王日枝神社に続いては、江戸っ子に愛され、時代劇にも頻繁に登場する神田明神こと神田神社です☆

一の鳥居

神田明神は東京都心~神田、日本橋、大手・丸の内の氏神様で、江戸時代は神田・日本橋に青果市場、魚市場があったことから、神田明神の境内に各市場の守護神として江戸神社、魚河岸神社も祀られている。

隨神門

隨神門は、総檜造りの入母屋造りで左右に隨神像を奉安し、昭和51年に建立されたもの。

御社殿

御社殿は、大正12年(1923)未曾有の関東大震災により江戸時代後期を代表する社殿が焼失してしまったが、氏子崇敬者をはじめ東京の人々により、はやくも復興が計画され、昭和9年に当時としては画期的な鉄骨鉄筋コンクリート・総朱漆塗の社殿が再建された。

東京大空襲にも耐えたこの御社殿は、平成15年に国の登録文化財に登録された。

獅子山
神田神社

ご祭神
大己貴命(一の宮)
少彦名命(二の宮)
平将門命(三の宮)

御由緒
社伝によると、当社は天平二年(730)に出雲氏族で大己貴命の子孫・真神田臣(まかんだおみ)により武蔵国豊島郡芝崎村―現在の東京都千代田区大手町・将門塚周辺)に創建された江戸東京の神社の中で最も古い神社のひとつです
延慶二年(1309)に平将門公を御祭神としてお祀りした。

だいこく様ご尊像

慶長八年(1603)、徳川家康公が江戸に幕府を開き江戸城を拡張する際、当社は社地を江戸城から表鬼門の位置にあたる現在の地へ遷し、幕府より社殿が造営された。以後、江戸時代を通じて「江戸総鎮守」として幕府はもちろんのこと江戸庶民に至るまで多くの人々の崇敬をうけた。

魚河岸水神社

閑話休題。

魚河岸水神社は、元和年間(1615~)神田神社と共に此の地に遷り、大市場交易神と称されその後、水神社と改称し更に明治二十四年(1891)魚河岸水神社と社名を変更し、日本橋魚市場の守護神として崇敬されている。
なお、日本橋より築地に移った築地中央卸売市場内には、当社の遥拝所が建てられ、市場に関わる人々の篤い信仰により支えられている。

・・・明治時代に入ると、准勅祭社・東京府社として皇居・東京の守護神と仰がれた。明治七年(1874)茨城県・大洗磯前神社より少彦名命を勧請、さらに同年、明治天皇が御参拝された。

平将門命は明治七年に一時摂社・将門神社に遷座されたが、その後神職及び氏子総代をはじめとする氏子崇敬者の懇願により、昭和59年、ふたたび神田明神の三の宮ご祭神に複座された。
(以上、御由緒より)

もともと神田明神は、平将門の怨霊を慰撫することを目的としたもので、江戸っ子の広い信仰を集めていた。しかし明治七年に(本当は)末社とされた。理由は陸軍の演習を指揮した明治天皇が、帰途に神田神社に立ち寄ることになったが、逆臣将門の霊を祀る神社に参拝することは容認できん!と言ったからであった。

しかし、町民は末社に遷された将門の小祠には参詣を欠かさず、本社参拝をボイコット。
そして祭神を取り換えた神官達の非を鳴らし騒ぎ立てたので、神官はやむなし別殿(摂社)を造営し、将門神社の扁額を掲げたのであった。

これは『銭形平次』の石碑。
平次の住居は、明神下の元の台所町ということになっている。
石造り寛永通宝の銭形の中央には平次の碑、その右側には八五郎、通称「がらっ八」の小さな碑が建てられた。

ちなみに神田神社の例祭「神田祭」は、山王日枝神社の「山王祭」、そして根津神社の「天下祭」と並んで、江戸三大祭と称されている。

「てやんでぇ~♪」

って感じですな(笑)

社殿裏手には多くの末社がある。
写真に納まっているのは、左から三宿稲荷・金刀比羅稲荷神社、末廣稲荷神社、籠祖神社。

そして裏参道より脱出!
次回は根津神社へ☆

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