相模路をゆく -2 海老名総鎮守 有鹿神社

相模路をゆく
2 海老名総鎮守 有鹿神社
(神奈川県海老名市上郷2791鎮座)


二社目は海老名に鎮座する有鹿神社。
海老名駅北口から徒歩20分程。
南口の開発から取り残されたように、一面田んぼの世界。

小さな集落の奥、相模川の畔に古社が鎮座されていた。
看板には『相模国五の宮』と記されていたが、真偽はいかに。

有鹿神社由緒

祭神 大日靈貴命

有鹿神社は、相模國の最古の神社であり、
しかも海老名の誕生と発展を物語る総産土神である。

最古の神社~有鹿谷の泉は縄文の水神信仰の対象。はるか遠い昔、相模湾の海底の隆起により泉落ちる鳩川に沿いに有鹿を中心とする大地が出現。
やがて、そこに人々の農耕生活が始まった。
その豊穣と安全を祈り、水引祭が起こり、有鹿神社は御創建されるに至った。

式内社~奈良から平安初期まで、海老名耕地という大墾田を背景として、海老名に国府があり、有鹿神社は官社であった。
天智天皇三年(664)初めて神事を行い、また、平安の延長五年(927)延喜式の制定により、相模国の十三座に列せられた。
美麗な社殿と広大な境内を有し、天平勝宝八年(756)郷司藤原廣政の寄進により、五百町歩の墾田も神領となった。
正一位の神階~貞観十一年(869)、従五位上に昇階し、その後、数次の昇階を経て、鎌倉の永徳元年(1381)、正一位の極位に達した。
平安末期、海老名郷の河原口に館を築いた豪族の海老名氏は、有鹿神社を崇敬した。

応永二十三年(1416)海老名備中持季(宝樹沙弥)は社殿を修理し、宮鐘を奉献した。しかし、室町の二度の無礼を受け、海老名氏が滅亡するに際し、美麗な社殿を始め、ことごとく灰塵に帰し、広大な神領も失った。

 総産土神~江戸期には、海老名郷五ヶ村の総鎮守であり、天正十九年(1591)徳川家康より朱印十石の寄進を受けた。天正六年(1578)神殿の修復がなり、元和八年(1622)海老名総領主(高木主水)の内室により、社殿が再建された。

明治六年(1873)に至り、郷社に列せられ、海老名の総鎮守となった。明治四十年(1907)神饌幣帛料供進社に指定された。第二次大戦後、宗教法人となり、神社本庁に属する。
現在も、有鹿神社は、海老名市のシンボルとして篤い崇敬を受けている。

社殿は、三棟一宇で、本殿を覆う覆殿・弊殿・拝殿からなる。
本殿は春日造、桧板葺の5.6平方米であり、元和八年(1622)を始めとし、数次の修繕を受け、今日に至る。
拝殿の天井には、大きな龍の絵が描かれている。万延元年(1860)、藤原隆秀(近藤如水)の作といわれている。本殿と天井絵は、海老名市の重要文化財の指定を受けている。

海老名備中守持季の奉献、元禄二年(1689)再鋳の宮鐘は、第二次大戦中に供出を受けたが、昭和五十三年(1978)の再鋳がなった。
続いて、手水舎の新築等、神社の整備が進められている。
境内社 大己貴命日枝社
由緒地

神社の境内は、有鹿の森であり、松なしの森ともいわれている。
境内に隣接して、有鹿姫の悲恋伝説に由来する有鹿姫の霊地がある。そこは鐘楼跡でもある。

神社の東方約四百米の所に有鹿の井戸(化粧井戸)があり、その北方二百米進むと、有鹿の池(影向の池)がある。また、神社の参道を南方約四百米進むと、鳥居の跡地の鳥居田がある。そこから河原口・中新田を通り、社家・門沢橋に至る古道は、明神大縄という参道であった。
社家は、神社の楽人の居住地であった。

相模原市磯部の勝坂には、有鹿谷の聖地がある。
そのおくには、清水の湧く洞窟(有鹿窟)があり、鳩川に流れ落ちている。この清水は有鹿谷の霊泉といわれ、古代から、海老名耕地を潤すため、水引祭が続けられている。この傍らの鳥居の奥に奥宮が祀られている。
(以上、境内掲示板より)

奥宮の崖の上の大地は縄文中期の大規模遺跡である勝坂遺跡。
そこから鳩川を通じて、相模川という大河へと流れた。

川の流れはヒトの流れを産み出し、肥沃な大地に農耕生活をして集落を築いて、ここ海老名の地にて社を建てて水神を祀った。

万物は絶えず流動していくもの。
それは水のように。


次回は『大山』を越えて、酒勾川まで行ってしまいました♪

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