19 June 2011

相模路をゆく -6 「糖屋八幡宮」 高部屋神社


相模路をゆく
6 高部屋神社

(神奈川県伊勢原市下糖屋2202御鎮座)

続いては、伊勢原市にある式内社、高部屋神社について。
大山登山の後に数km歩くのは、かなりシンドイ・・・。

社頭

国道246号線下槽屋交差点から数分の地に鎮座。
境内の裏手は低地が拓けており、御由緒内に出てくる通り、要害(ちょっとした城)だったのがよく分かる。
鳥居

そして鳥居には海藻が下げられている。
これは高部屋神社例祭に行われる「塩汲み神事」から起因している。

祭神である住吉神が大磯(照ヶ崎海岸)より上陸したとの神話にちなみ、当日大磯の浜から海水を汲み、浜砂とともに持ちかえった神馬藻(ホンダワラ)を拝殿と鳥居の注連縄に下げ、海水は鎮火水として神前に供え、浜砂は参道のお清めに使われる。

海から相当離れているのに、実に興味深い伝統である。

拝殿

藁葺の屋根が古社であることを感じさせる拝殿。
ちなみに慶應元年再建とのこと。
彩色が鮮やかなお社よりこのような素朴な雰囲気のお社の方が好み♪

扁額(山岡鉄舟作)

延喜式内・高部屋神社の由緒
鎮座地 神奈川県伊勢原市下糖屋2202
主祭神 神倭伊波禮彦命
相殿 三筒男命(住吉大神)・譽田別命・大鷦鷮命・息気長足姫命・磐姫之命

当社は、『延喜式神名帳』に記載されている相模国13座の1社で、大住郡127ヶ村の惣社と言われていた。創建年代は不詳なるも、紀元前655年とも言われている。糖屋住吉の大神として、又の名を『大住大明神』と呼ばれ、武門・武士を始め万民の崇敬せられたる古社である。

拝殿の装飾

江戸中期頃までは、別命「糖屋八幡宮」と呼ばれ名社の名を謳われた。古社たる由縁には、『汐汲みの神事』があり、更に雅楽面3面の古面と、源朝臣・頼重施入の経巻・上杉定正が寄進の大般若経の写経の伝来があり、境内の釣鐘堂には至徳3年(1386年・験重要文化財)平 秀憲が寄進の銅鐘が、今でも時を刻んでいる。

京都宇治にある万福寺7世で、中国の福建省・泉州府・晋江県からの渡来僧、悦山道宗筆により『八幡宮』の扁額(元禄初期の作)があり、本殿前の狛犬を寄進した行按・行白も臨済宗・黄檗派の僧で、一時期、別当神宮寺と共に黄檗派との関係が深かったと思われる。

当神社のこの地は、千鳥ヶ城と呼ばれる要害が後北条氏の滅亡まで、社地の続きに存在が最近の調査で認められた。鎌倉時代に源頼朝の家人。藤原鎌足・冬嗣の血を引く糖屋庄の地頭「糖屋藤太左衛尉有季」の館跡と言われていて、高部屋神社を守護神として社殿を造営した。

本殿

室町時代に入ると、将軍・足利氏の家人団・上杉一族の関与があったと思われている。
糖屋氏・上杉氏と関わった武士達の興亡をのせてきた高部屋神社も後北条氏を迎え、相模国風土記稿に載る、天正9年(1581年)5月10日八幡宮境内の3ヶ条、松山城主・上田能登守長則の禁制(法度)が知られている。
又、天文20年(1551年)に地頭・渡辺石見守が社殿を再興し、天正19年(1591年)徳川家康から式内社の名社あることで、社領10石を寄進し、朱印状を頂いた。

社殿は、天保4年(1647年)に本殿を再建したが、関東大震災で倒壊し、昭和4年に柱・彫刻・正面扉等をそのまま生かし再建、拝殿は、慶応元年(1865年)に再建され現在に至っている。
尚、拝殿正面の頭上に、山岡鉄舟の筆による『高部屋神社』の社号額が掲げられている。
(以上、境内掲示板より)

梵鐘

本当に相模国は神仏習合の名残からなのか、境内に梵鐘が置いている神社が多い。
そしてこの梵鐘は1368年に奉納されたもので、神奈川県指定文化財に指定されている。

高部屋神社は、別名を八幡神社と称し、平安時代に書かれた「延喜式」にもその名が残る延喜式内社です。この神社に伝わっている銅鐘は書かれている銘から至徳三年(1368)十二月に河内守国宗によって造られ、平秀憲によって奉納されたことがわかります。

鐘の全体としてはよく整った優れた作品であり、上帯下帯に見られる文様や作者である河内守姓などから鎌倉を中心とする文化圏のものとわかります。

(境内案内板より、一部抜粋)
 左:境内社の金刀比羅宮 右:八坂神社

この社殿の素朴で郷愁を覚えるような佇まいながらも、彫刻のきめ細やかさ。
心の底から参拝して良かったな、と感じたお社であった。

けやきの大木

境内に根を張っているけやきの大木。
太く根を張って、神社を守護しているように思えた。


次回は引き続き伊勢原市内のお宮です♪

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