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Showing posts from July, 2011

フツヌシ、経津主と、古事記での「布都御魂」

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香取神宮の祭神である経津主神(フツヌシノカミ)は、古事記に登場せず、日本書紀では冒頭の「国譲り神話」にてカケミカヅチとともに出雲国を平定するために降ってきたとある。

しかし、古事記の「熊野でのおはなし」にて、布都御魂(フツノミタマ)という剣として登場してくる。

(お話・神武東征~熊野でのおはなし)

伊波礼毘古神(イワレビコノ命・・・神武天皇)一行が東征の途中、登美の地に住む大和地方の豪族、那賀須泥毘古(ナガスネビコ・・・長髄彦)の軍と戦ったが敗戦。

その際、イワレビコの兄であった兄・五瀬命(イツセノ命)が矢を受けてしまい負傷し、やがて紀国の男之水門で戦死した。

一行は兄の死後、軍隊を連れて熊野の村へ着くと、大きな熊が現れて、いつしか兵士達は気を失ってグッタリとしてしまった。

この時、熊野の高倉下(タカクラジ)が剣を携えてイワレビコノ命の下へ向い、剣を受け取ると気を失っていた一行は眠りからさめ、熊野山の荒ぶる神々はその剣をふるわないうちに切り倒されてしまった。

その剣は佐土布都神(サシフツノカミ)、別名 甕布都神(ミカフツノカミ)、布都御魂(フツノミタマ)と呼ばれ石上神宮にて御神体として祀られていたが、やがて拝殿の裏手の禁足地に埋められてしまう。その後、明治時代の発掘調査にて発見された内反りの刀(日本刀とは逆に刃がついている~鎌みたいな感じ?)で、現在は本殿内に安置されているとのこと。

そしてこの布都御魂、実はもう一振り存在している。
布都御魂剣または韴霊剣(ふつのみたまのつるぎ)と称する巨大な直刀で、奈良時代~平安時代に製作されたもので、鹿島神宮の宝物館に展示されている。

ちなみに、石上神宮は崇神天皇七年、物部連の祖・伊香色雄命が勅を奉じて布都御魂大神と布留御魂大神を石上の高庭に遷し祀った神宮である。
・・・さてさて

イワレビコは、タカクラジに剣を入手した経緯を尋ねた。 すると、夢の中でアマテラス大御神と、高木神(タカギノ神=高御巣日神・タカムスビノカミの別名)が建御雷神を御呼びになり・・・
アマテラス「葦原中国はまたひどく乱れている・・・。私の子たちも病を得て困ってしまってますわ」
タカギ神「以前そちが葦原中国を平定したように、今回も出かけてほしいんじゃが。」
すると、タケミカヅチは一本の剣を差し出して、
タケミカヅチ「私が行かなくても、荒ぶる神を鎮める力のある剣があ…

流海(霞ヶ浦)を巡る -7 神崎神社 「なんじゃもんじゃの木」

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流海(霞ヶ浦)を巡る
神崎神社
(千葉県香取郡神崎町神崎本宿1994鎮座)


いきなり入道雲が浮かんでいる『真夏の景色』になってしまってすいません・・・。 成田近辺に所用がありましたので、折角だったので神崎神社まで立ち寄ってしまいました^^
ちなみに気温は35度以上はあった(アスファルトの照り返しで体感温度は40度以上はあった??)ので、まさに苦行でした><
さて、JR成田線下総神崎駅から約2㎞の位置にある 「神崎の森」内に神崎神社が鎮座されている。
古文書によると、かつてはお隣の駅にある大戸神社(香取市大戸字宮本鎮座)とともに、香取神宮の境外摂社だったとの記述がある。

尚、残念なことに、鳥居脇に建てられた忠魂碑は震災の影響で倒壊しており、さらに近くに架かっている神崎大橋は2011年7月現在、今だに通行止の状態が続いている。
こちらのルート(東側)は「女坂」となっており、比較的勾配が低くなっております^^

さて、「神崎の森」内の急な石段(男坂)を登っていくと、 途中摂社である三峰神社が鎮座されていた。
神崎の森は、通称ひさごが丘、ひょうたん山、双子山とも呼ばれていたらしい。

さらに石段を登ると、その頂に社殿がドンと構えていた。

神崎神社
白鳳時代(白鳳二年~673年)に常陸国と下総国との境、大浦沼二つ塚(現在の茨城県)より現在の地に遷座し、明治6年に郷社、大正10年県社に昇格しました。
御祭神は天鳥船命、少彦名命、大己貴命、面足命、惶根命であり、交通・産業守護の神として深く信仰されています。
古くは子松の神、神崎大明神と称され、徳川時代は代々御朱印二十石を寄せられました。 7000坪あまりの境内は「神崎の森」と呼ばれ、全域が県の天然記念物に指定されています。 (境内掲示板より)
とても美しい社殿の姿。
照りつける日差しに映し出された木々の葉の色も鮮やかに見える。

本殿右脇に青々と生い茂っている大樟は、「なんじゃもんじゃの木」と通称され、国指定天然記念物の御神木である。

国指定天然記念物 神崎の大クス
古来、ナンジャモンジャの木といわれ、「利根川図志」・「牧野富太郎化学随筆集」などでも紹介されてきたクスの木の巨木である。
延宝二年(1674年)四月、水戸光圀公当社参詣の降り、「この木は何というもんじゃろうか」と自問し、感嘆されたという。
それ以来、この御神木は「ナンジャモンジャ」の名をもって広く知られ渡っている…

流海(霞ヶ浦)を巡る -6 麻賀多神社(手黒社)と伝伊都許利命墳墓

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流海(霞ヶ浦)を巡る
麻賀多神社 (船形・手黒社)

(千葉県成田市船形834番地御鎮座)

続いては船形にある通称「手黒社」
台方社とは旧印旛湖を挟んで対岸の北側にある奥の宮。
山道をえっほらえっほらと登っていくと、その頂に神社が鎮座されている。
微かに見える田んぼが旧印旛湖、その先には台方の麻賀多神社。 (因みに車で行けば、車道が整備されているので、バビューンと簡単に行けます^^)

境内の右脇には「公津原古墳群 第三十九号墳」と呼ばれる墳墓があり、
麻賀多神社の創始、伊都許利命の墓とされている。 よく見ると小高い山のような形状になっているここが、印旛国造・伊都許利命の墳墓と比定されている。
「神八井耳命の八代目の御孫」という点から多氏の末裔が入植して、当時貴重な麻を収穫していたのであろう。
よって、麻縣から時を経て麻賀多神社と名乗るようになったと思う。 確か「総国」の「総」も麻という意味だったと、どこかの本で読んだ記憶が残っている。

千葉県指定史跡 公津原古墳群 第三十九号墳 「伝初代印波国造伊都許利命の墳墓」
国造とは、古代大和の王権に服属した地方首長の身分の呼び名です。 地方統治にあたらせ、大和王権は国造制のもとに地方支配体制をかためました。
大化の改新による国群制度の施行によりその多くは郡司に優先的に登用されましたが、一部は律令制下の国造として祭祀をつかさどり、世襲の職とされました。
古墳は『先代旧事本紀』の中の「国造本紀」に見える“印波国造伊都許利命”の墳墓と伝えられています。墳丘の大きさは東西辺約35m、南北辺約36m、高さ約5mの方形墳です。

遺体埋納施設は、後期古墳の主体武に多くみられる凝灰質系軟質砂岩の切石積みによる横穴式石室(南側裾部)と、母片岩の板石を組み合わせた箱式石棺の二施設があります。
こちらは麻賀多神社の脇にある第三十九号墳の入口。 門前に鍵が掛けられており、注連縄が張られていた。
伊都許利命由緒
伊都許利命は、神武天皇の皇子神八井耳命の八代目の御孫で、応神天皇の命を受けて、印旛國造としてこの地方を平定され、産業の指導などに多くの御功績を発されています。

その昔、日本武尊ご東伝の折、大木の虚に鏡をかけ、根本に七つの玉を埋めて、伊勢神宮に祈願されました。
命は「この鏡えおあがめ祀れば永く豊作が続く」との教をききその鏡を御神体としてこの地に…

流海(霞ヶ浦)を巡る -5 麻賀多神社(稷山社)と天日津久社

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流海(霞ヶ浦)を巡る
麻賀多神社 (台方)

(千葉県成田市台方字稷山一番地御鎮座)

主に下総国に集中している社、麻賀多神社の総本社であり、式内社に比定されている印旛地方最古の社~千葉県成田市の麻賀多神社。

まずは台方にある「稷山社」へ。
標高30メートルの台地上の社叢に囲まれたお社である。

恐らく往古の昔は、印旛湖だったと推測される水田。
現在も『公津』という地名が残っているが、これはかつて「神津(神の港)」だった名残とされている。
さて写真の左側(南側)の高台に台方・稷山社、右側(北側)の小高い丘のてっぺんに船形・手黒社が鎮座されている。

御祭神 和久産巣日神(稚産霊命) 伊勢の外宮豊受大神の親神、伊勢内宮天照大神は妹神、香取神宮経津主大神は弟神

この地方は二千年の昔、麻の産地で麻縣とも云われた時代があった。
当時麻は織物類の原料として貴重なもので、朝廷の身に着ける衣はこの地方から献上されていたとのこと。
そのためこの神様の御紋は特別に麻の葉になったと云うことである。

その昔日本武尊御東征の折、この地方の五穀の実りが悪いのを知り、里人を集めて大木の虚に鏡を掛け、その根本に七つの玉を埋めて伊勢神宮に祈願いたしましたところ、その後は豊年がつづいた。
そして今から1700年余前(応神天皇の頃)伊都許利命が印旛国造(地方長官)任命され、この地方の開発につくされた時、夢の中で

『洞木の下の地中に玉(勾玉)あり、掘り出して和久産巣日神を祭れ』

とのお告げあり、勾玉を掘り出して御鏡と共に御霊代として稚産霊命(伊勢外宮の親神)を祀り、麻賀眞の大神と崇め、八代・神津(公津)の両郷を神領として奉斎しました。

このお社は国幣社で勅使の往来があり、印旛湖畔に建つ大鳥居(一の鳥居)は約1200年前(桓武天皇の頃)勅使大伴家持の寄進によるものとされています。
この地方には古くから人が住み、周囲が海であったことから、昔この地方を神津(神の港)といわれていた。

その後推古天皇十六年(608)新たに宮居をこの地に建て麻賀多の大宮と名付けた。
本地御鎮座以来一千三百六十余年(昭和49年時)、印旛郡下十八麻賀多の総社として筒粥祭り、御田植祭、豊年神楽などの古い儀式が継承され御祭神にゆかりのある古い地名等も現存している。又明治五年に郷社に、昭和十年御神木大杉は県の天然記念樹等に選ばれた。

現在の本殿(…

流海(霞ヶ浦)を巡る -4 蛟蝄神社 (奥の宮)

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流海(霞ヶ浦)を巡る
4 蛟
神社 (奥の宮)

蚊もう神社奥の宮は、門の宮の東約300mの高台に鎮座している。

勾配の大きい石段を登ろうとしたら、道脇に腰かけていたおばあちゃんに声を掛けられた。 「階段に落葉がいっぱいあるから気をつけてェ~」
ありがとう、おばあちゃん^^ だけど注意にもかかわらず、落葉のせいで滑りコケそうになりました・・・。

石段を登りきると、ひっそりと社殿が佇む境内へ。 社叢の木々に視界を遮られてしまい、「水郷地帯が一望!」とまでいきませんでした。

御祭神: 弥都波能売命・・・みつはのめのみこと(水神) 波邇夜須毘売命・・・はにやすひめのみこと(土神)
御祭神の弥都波能売命は、日本書紀では罔象女神と記されている。

古事記の神産みの段において、カグツチを生んで火傷し苦しんでいたイザナミがした尿から、和久産巣日神(ワクムスビ)とともに生まれたとしている。

日本書紀の第二の一書では、イザナミが死ぬ間際に埴山媛神(ハニヤマヒメ)と罔象女神を生んだとし、埴山媛神と軻遇突智(カグツチ)の間に稚産霊(ワクムスビ)が生まれたとしている。

神名の「ミヅハ」は「水走」と解して灌漑のための引き水のことを指したものとも、「水つ早」と解して水の出始め(泉、井戸など)のことともされる。
また「ミツハ」に「罔象」の字が宛てられているが、罔象は中国の文献で、龍や小児などの姿をした水の精であると説明されている。

さらにミツチ(蛟)は「おろち(愚霊)」「いそら(卑霊)」と同義で、劣る竜。未熟な竜という意味があるらしい。

奥の宮の社殿は元禄十六年に再建されたもの。
沿革については、前回の「里の宮」と内容が重複するが、 孝霊天皇3年(BC288)に水神である弥都波能売命(みつはのめのみこと)を現在の門の宮の場所に祀ったのがその始まりで、文武天皇(第42代天皇)2年(698)には、土神の波邇夜須毘売命(はにやすひめのみこと)を合祀し、東の高台(現在の奥の宮)に遷座した。

このとき、門の宮は、取り壊す予定だったが、氏子たちの強い要望で、祭神を分祀し、門の宮となった。 元来水の神を祀っていたが、門の宮が冠水などの水害があった為、高台にある当地に遷して「土の神様」ハニヤスも合せて祀って鎮めようとしたのかな?と推測。


石段の右脇にあったスダジイの老木。
枯死しそうだが、まだ大丈夫。 木の命は簡単…

流海(霞ヶ浦)を巡る -3 蛟蝄神社 (門の宮)

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流海(霞ヶ浦)を巡る
3 蛟
神社 (門の宮)
(茨城県北相馬郡利根町立木882御鎮座) 阿見町から一気に南下、牛久観音を通り過ぎ、龍ヶ崎市を縦走すると利根町へ。
一面田んぼの凡庸な景色から、モサっとした森が小島のように姿を現す。
その小島のような社叢の中に、蛟蝄神社が鎮座されている。
蛟蝄神社は、「こうもう」神社と読むが、延喜式神名帳では「みつち」とも読ませている。
神社の歴史は古く、紀元前288年に水神の弥都波能売命が祀られたのがはじまりで、その後688年に土神の波邇夜須毘売命を祀っているとのこと。

沿革 蚊罔神社は孝霊天皇三年(BC288)に水神の弥都波能売命、文武天皇二年(698)に土神の波邇夜須毘売命をまつったのが、そのはじまりと伝えられています。
記録にあらわれた最初は、延喜五年(905)に編集を開始した「延喜式」の神名帳で、「相馬郡一座蚊蝄(みつちの)神社」と書かれています。

蚊蝄の名は、周囲が流海であったころの台地の姿が、水を分けて進む水蛇ににていたためといわれています。 門の宮のある所は、縄文後晩期貝塚(BC2500~BC300)で、そうした古代の有り様をしのばせます。同時にこの貝塚は全国的に見ても貴重な遺跡として大切にされています。 門の宮の社殿は慶長三年(1598)に府川藩松平信一が再建したという記録と元禄十一年(1698)再造営の棟札が残されています。

奥の宮は元禄十六年に再建されました。 簡素なつくりで、彫刻で飾られた門の宮と対照的な建築物です。
蚊蝄神社には日本武尊が参拝したという伝説があり、近くに弟橘姫の櫛塚や舟形山があります。 (以上、社頭掲示板より)
注連縄の「〆の子」が重厚感がある。
この形は板〆めと呼ばれる形で、特に九州北部の神社や、天神社に多いらしい。
北九州の海人族との関連性があった・・・とは考え過ぎですね。

ちなみに、〆の子とは注連縄に紙垂と共に付ける藁で作られた飾りのこと。

この石塔は「中臣一万度行事塔」と書かれている。 近辺の社では、同様の意味を成した塔が多くあるらしい。

中臣一万度行事とは、「中臣祓詞を一万回唱える」という意味で「万度祓」と言われる神事。

『元々は毎年6月と12月の末日に行われる大祓で、犯した罪(神道の観念による「罪」であり、犯罪とは意味合いが異なる)・穢れを祓うために唱えられた祝詞で、中臣氏が京の…