流海(霞ヶ浦)を巡る -13 「元鹿島」 大生神社

流海(霞ヶ浦)を巡る
「元鹿島」 大生神社
(茨城県潮来町大生鎮座)

鹿島神宮に続いては、「元鹿島」と言われている大生神社。
霞ヶ浦畔から急坂を登った高台に当神社は鎮座している。

参道は長い一本道。
常陸国の古社は、昔から変わらぬ佇まいを残しているように思える。

石鳥居

大生神社は健御雷之男神(たけみかづちのかみ)を祭神とする元郷社で、その創祀年代は、大同元年(806)藤原氏が東夷東征の際に勧請されたのが始まりと伝えられているが定かではない。

鹿島の本宮と云われ古く大和国の多(飯富)族の常陸移住の際氏神として奉遷し、御祀したのに始まるといわれている。

拝殿
「常陸國風土記」行方郡の板来(いたく)の村に関わる記述の中に、神武天皇の皇子、神八井耳命の子孫、建借間命が国栖(くず)と呼ばれる異族の首魁を征討した時の話が伝えられている。

異族は穴を掘って住んでいて、官軍を防いでいたが、その頑強さに手を焼いた建借間命は一計を案じて、浜辺に美しく飾り立てた舟を旗になびかせ、笛の音が流れて聞こえるなかで、「杵島の唱曲」を七日七夜歌ってさかんに遊楽した。賊の方は男女ともに穴から出てきて、浜一杯にひろがり、めずらしい歌舞を楽しんだ。

建借間命は賊が油断した隙を捕えて襲い掛かり、皆殺しにしたという話である。
その中心部は、旧大生原村の大生と呼ばれたところであった。

大生大神の扁額
また、「常陸國風土記」行方郡の条に、「ヤマトタケルの食事を煮炊きする小屋を海辺にかまえ、小舟を並べてつらねて橋とし、行宮に通った。そこで大炊(大飯)の意味をとって、大生の村と名づけた」とある地であり、この地名と多氏との関連が現れている。

大生原の地は、大生古墳群と呼ばれる古代の墳墓が百数十も密集している地域であり、古代の常陸を想定してみると、ここは流海すなわち北浦とその南の利根川下流につき出した行方台地の尖端に位置しており、そこから鹿島方面に行くには、この行方台地の岬にあたる大生から船で行くしかなかった。

御神木のカコノキ
大生神社は、天正八年(1590)の棟札が残っている古社だが、大生神社の氏子たちは、鹿島神宮はここから移されたものであると固く信じ、「元鹿島」の名で大生神社を呼んでいた。

多坐弥志理都比古神社 (大和国)
それを裏書きするように、鹿島神宮の代々の神職をつとめている東家の文書に、大生神社は南部大生邑(多村)から移されたとあり、それに従えば、大和の多坐弥志理都比古神社(多神社)から遷座したものに相違ない。

尚、大和の多神社は、多氏の正系の太安麻呂の子孫が神主となってきた神社である。

(出典:「日本の地名」 谷川健一著)

社殿

神八井耳命の子孫、建借間命が常陸の国栖を制圧したと、常陸国風土記にあるが、「建借間命(タケカシマノミコト)」という名自体からして、「借間=香島=鹿島」と単純に考えたくなる。
建借間命は、麻賀多神社の創始者で印波国造だった伊都許利命(多一族)の2代前にあたり、さらに建借間命を祭神としている大井神社の地名は水戸市飯富町(=オフ=多)と関連されている。

本殿
『茨城県指定有形文化財
大生神社本殿
昭和三十二年六月二十六日指定

この本殿は天正十八年(1590)の建立と伝えられる三間社流れ造り茅葺で間口約六メートル、奥行約七メートル、前軒高さ約三・三メートル、裏軒高さ約四メートルと地方社殿としては大きく荘厳にして、当地方における最古社でその時代の特徴を良く示しており、貴重な存在である。

また、毎年十一月十五日の例大祭で奉納される巫女舞神事は昭和三十八年八月二十三日に、社を取り囲む樹叢は昭和三十九年七月三十一日それぞれ県指定文化財となり、拝殿は潮来町指定文化財である。
(以上、境内案内板より)』

斎殿
そして、建借間命は、鹿島神宮の仮殿の隣りに鎮座する「高房社」の祭神であり、鹿島神宮の古式参拝方法では、主祭神のタケミカヅチの前に「高房社」を参拝することが慣例となっていた。

まだまだ続く飯富(多)一族のミステリー。
次回は、大生原古墳群と、大生殿神社を少々・・・。

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