鹿島灘を巡る -15 大洗磯前神社 社殿と由緒

鹿島灘を巡る
大洗磯前神社 社殿
(茨城県東茨城郡大洗町磯浜町6890御鎮座)


「元鹿島」大生神社に続いては、一路大洗海岸へ。

神門
潮来から車で1時間強走り、ようやく大洗に到着。
そして高台のてっぺんに大洗磯前神社が鎮座されている。
隨神門の風貌がとても歴史ある雰囲気。

社殿
尚、神門・社殿(拝殿・本殿)は、水戸光圀公の命で元禄三年(1690年)に建てられたもの。
今回の震災で損傷がなければよいのだが・・・。
再度参拝したいお社のひとつである。

大洗磯前神社案内記
茨城県東茨城郡大洗町磯浜町6890御鎮座

御祭神
大己貴命
少彦名命

御鎮座

当神社の御創立は文徳実録の記す処によれば、斉衡三年(856)と云われておりますから今(平成23年)を去る1155年前の事であります。
文徳実録斉衡三年十二月戊戌(二十九日)の條に、「常陸国上言鹿島郡大洗磯前有神新降云云」とその状を事細かに記してあります。
全国に名社、大社と云われる神社が数多くありますが、当社の様に御創建の年代の明確な社は稀であります。

本殿
御祭神は文徳実録に、「大奈母知。少比古奈命也」とありまして、大奈母知は大己貴命、即ち大国主神にして、日本書紀には素戔嗚尊の五世の孫と云い、古事記には御子神と記してあります。

大国主神、大物主神、顕国玉神、葦原醜男神、八千戈神など数多の御名があり常に少彦名命と二柱相並び御出現になり、御神徳を顕されております。

少彦名命は高皇産霊神の御子神と記されてあります。
大己貴命は国土を開拓し殖産興業に力を尽し人々の生活の基礎を築き、少彦名命と共に山野に薬草を求めて、病難に苦しむ人々を治療し又禁厭(まじない)の法を定めて、民の災禍を防ぐ等、国土の経営・民生の安定を計り、徳望高く人々はその恩恵を蒙っておりました。

本殿左の末社
右より八幡宮、水神社、大杉神社
御由緒

文徳実録の記録によれば斉衡三年常陸国上言鹿島郡大洗の里に御出現になり給いし時、里人の一人に神がかりして人々に教えられました。

「我はこれを大奈母知。少比古奈命也。昔この国を造り常世の国に去ったが、東国の人々の難儀を救う為に再びこの地に帰って来た」と仰せられました。

当時の記録によると、度々地震が発生し人心動揺し、国内が乱れておりました。
二柱の大神はこうした混乱を鎮め人々を苦しみから救う為に降臨されたのです。

即ち大洗磯前神社は、御創立の当初から関東一円の総守護神として、大神様自らこの大洗の地を選び御鎮座になったのであります。

本殿右の末社
右より水天宮、静神社、大神宮
翌天安元年(857)八月七日官社に列せられ、次いで十月十五日には「大洗磯前薬師菩薩明神」の称号を賜りました。
当時国司の上奏から八か月でこの待遇に預るという事は破格の事でありまして、如何に御神徳が顕著であったかを知る事が出来ます。

延喜の制当社を明神大社に列せられ、東国の大社として祀田千石を領し祠宇宏壮にして、遠近の信仰を集めて栄えておりましたが、残念な事に永禄中、小田氏治の兵乱に際し、その難を蒙り、御社殿以下の諸建造物は焼失し、爾来一小社に辛うじて祭祀を続けてきました。

エビス様とダイコク様の木像が
置かれた祠
水戸藩二代徳川光圀公は由緒深き名社の荒廃を見るに忍びず、元禄三年御造営の工を起し、次いで三代藩主綱條公に至り本殿、拝殿、神門に至るまで建造の工を竣え、名大社にふさわしき輪奐の美を整えました。
爾来歴代の水戸藩主は篤く当社を尊崇し幕末に至りました。

現存する社殿、神門等は当時の建造物で社殿の彫刻と共に、徳川初期を偲ぶに足る文化財として貴重なものです。
明治七年県社に指定せられ、明治十八年四月に国幣中社に列せられましたが、大東亜戦争終息を機に、政教分離の名の下に宗教法人としてのみその存続を容認せられました。
(以上、御由緒より)



鳥居から太平洋を望む。
海の色が冬らしくモノクロームな色彩で、物悲しく見える。


次回も、引き続き大洗磯前神社。

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