東京湾沿いの古社(旧東海道編) - 川崎稲毛神社

旧東海道の古社
川崎稲毛神社
(神奈川県川崎市川崎区宮本7-7御鎮座)


今回は川崎駅からすぐ、第一京浜脇に鎮座されている稲毛神社です。
東京湾沿い(相模国‐総国)間には、パラレル・ワールドの如く(!?)近似した地名が多い。

例えば、ここ稲毛神社の稲毛という地名は千葉にもあるし、逆に寒川神社は千葉と神奈川に鎮座されているし。(相模国の寒川神社は相模国一宮)

他にも地図を見ると、結構同じ名の地名が多いです。

お暇でしたら、探してみてくださいな☆

さてさて、稲毛神社は旧東海道川崎宿の近くに鎮座されている。
稲毛神社の創始は定かでないが、社伝からすると、紀元1~2世紀には存在していたことになる。

旧社格は郷社で、現在は神社本庁の別表神社。
旧称は山王権現、武甕槌神社等と呼ばれていた。

川崎稲毛神社

主祭神 武甕槌神
配神 経津主神、菊理媛神、伊弉諾神、伊弉冉神

旧御社殿跡
御由緒・御沿革

当神社の御創建の年代は詳らかではありませんが、御神木大銀杏の樹齢が一千年と推定されるところから、当社の古社であることがわかります。

社伝によれば、第十二代景行天皇が東国御巡遊のおり、当神社に賊難を避けられたといい、第二十九代欽明天皇の御代、この地方に動乱が絶えなかったため、天皇は当神社に幣帛・七串を奉り、新たに経津主神、菊理媛神、伊弉諾神、伊弉冉神を配祀せしめられ、戦勝とその後親和協力を祈られ、以後長く勅願所であったと伝えられています。

鎌倉時代には将軍家より社領七百石を賜り、佐々木四郎高綱公が源頼朝公の命を受けて御社殿の造営に当りました。
足利時代には、当時の神主が新田家と関係が深かったため、社領を二十石に削られてしまいました。しかし、この時代の信仰の深さを物語る史料として、応永十一年(1404)の大般若経六百巻施入の記録があります。
また新潟県の国上寺の現存する長禄二年(1458)銘の鰐口は河崎山王社すなわち当社に奉献されたものです。

大鷲神社
(左の金属製覆殿に囲われた社は子神社)
秀吉公および江戸幕府からは二十石を賜りました。とくに家康公江戸入部に際し、ご巡見のおり、当神社に御参拝あり、隨神門、神馬等の寄進を受けたとあります。江戸時代中期以降は平和な時代風潮の中で殷賑を極め、社家九家社人十三人を擁し、川崎宿及び河崎七ヶ村の鎮守として広く近隣一円の崇敬をあつめていました。

末社
右より、三峰神社・御嶽神社・八坂神社・大神宮・
松尾神社・金比羅宮・福田稲荷神社
当神社は初め御祭神の御名をそのままとって「武甕槌宮」と称していましたが、平安時代末期にこの地を領有した河崎冠者基家(秩父平氏)が山王権現を勧請して以後「河崎山王社」「五社山王」「三社宮」などとよばれていました。

末社
佐佐木神社・川崎天満社・白山神社・浅間神社
山王権現の称号は天台宗系の神仏習合思想「山王一実神道」によりますが、慶應四年、御征討のため下向された有栖川宮熾仁親王殿下が当神社に休憩され、その折の殿下のお言葉「御社名、新政府の神仏分離の方針に相応しからず」により、鎮座地武蔵国稲毛庄の名をとって「川崎大神稲毛神社」と改称しました。

その後、一時「川崎大神宮」と呼ばれた時期もありましたが、明治中期には「稲毛神社」が固定しました。

御神水吹上げ井戸石枠
この地は水が悪く、住民は長い間たいへん苦労しましたが、この井戸だけはいつもこんこんと吹き上げんばかりに清水が湧いていました。
とくに、流行病のときなど、夜半に水垢離をする人が随分遠くから来たということです。
しかし、工場による地下水の汲み上げのためか、昭和の初期になると枯れてしまいました。

この石枠は川崎宿の旅籠屋中の寄進によるもので寄進者の名が記されていますが。文化八年(1811)と、文政十二年(1829)の二つの年号が刻まれています。

(以上、略記より)

鳥居脇に咲く藤の花。
とても落ち着くお社でした。

次回はもうちょい南下してみます☆


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