9 April 2012

奈良の社 多一族の総本社 多坐彌志理都比古神社 (多神社)

Location 日本, 奈良県磯城郡田原本町多
多坐彌志理都比古神社 
(多神社)
(奈良県磯城郡田原本町大字多字宮ノ内569鎮座)

多神社こと多坐彌志理都比古神社は、奈良盆地の中心に鎮座し、東の三輪山、西の二上山の中心に鎮座する古社。神武天皇の皇子である多氏の祖神・神八井耳ノ命ほか四柱と、古事記を編纂した太安万侶(おおのやすまろ・太朝臣安万侶)を祀っている。
創建は綏靖天皇二年(BC631)と言われ、古代祭祀の中心地だったという。

多(おふ)一族は、意富、太、大、意富、飯富、於保などともいい、全国に多一族の名残のあるお社や地名が存在しているものの、その詳細は謎につつまれており様々な諸説がある。

ちなみに、個人的には全国に点在する多氏所縁のお社巡りをするのが目標のひとつ(笑)

大和国東側の峰々
ちなみに、本Blogに記載してある多氏に関係するとされている社は、
大生神社大生殿神社(茨城県)、麻賀多神社(台方社手黒社)飽富神社(千葉県)等・・・。
どうやら存命中に目標は達成できそうにもないかな・・・。

多坐彌志理都比古神社
御祭神
第二殿 神八井耳ノ命 (神武天皇第二皇子・多神社の主祭神)
第三殿 神沼名河耳ノ命 (神武天皇第三皇子・綏靖天皇)
第一殿 神倭磐余彦尊 (神武天皇)
第四殿 玉依姫ノ命 (神武天皇の母君)

拝殿
御由緒
磯城郡田原本町多の里飛鳥川東岸(「和名抄」十市郡の飫富郷)に鎮座、祭神は神八井耳ノ命、神沼名河耳ノ命(綏靖天皇)、神武天皇(神倭磐余彦ノ命)、姫御神(玉依姫ノ命)四柱とともに太安万侶を祀る。俗に多神社という。

延喜式内明神大社「正一位勲一等多大明神」の額が鳥居に掲げられている。

本殿は大型の一間社春日造り四殿配祀の形式をとっている。
多神社の若宮として東方に姫皇子命神社、南方に小社神社、右に皇子神命神社、西方に屋就神命神社が鎮座し、西南の方向橿原市飯高に祀る子部神社二座も多神社の若宮とも見受けられます。

壮麗な本殿
大和盆地のほぼ中央に鎮座し、東に三輪山、西に二上山、南に畝傍山を配し神社の東方下つ道のところに一の鳥居がある。
西、南、北には小字名として鳥居、鳥井の名前がいまだに残っている。
このことから多神社当時の境内の広さが伺いしれる。

現在も多神社、小社神社三宮(皇子神)合わせても2万平方メートルを越え、これほどの境内を有する神社は盆地内に類を見ない。
春日、石上、大神、他大きな神社はすべて山の麓に位置し、いかに勢力を持っていたか窺い知れる。
尚、社殿裏の森には古代祭祀の遺跡があるという。
(以上、参拝の栞より)

ちなみに、境内社として能野神社・住吉神社・春日神社・石上神社・竈神社・八幡神社が祀られているとのこと。

本殿裏側
さてさて、多神社の主祭神である神八井耳命(カムヤイミミ)と神沼河耳命(カムヌナカワミミ)について、古事記では次のように記されている。

神武天皇には、大物主命の娘である比売多多良伊須気余理比売(ヒメタタライスケヨリヒメ)との間に、神八井耳命(カムヤイミミ)日子八井命(ヒコヤイ)神沼河耳命(カムヌナカワミミ)の三柱の御子を御産みになった。
しかし、実は東征する前に、日向国にて阿比良比売(アヒラヒメ)との間に多芸志美美命(タギシミミ)、岐須美美命(キスミミ)の二柱の子を既にもうけていた。

神武天皇が御崩御なされた後、タギシミミは神武天皇の妻であったイスケヨリヒメを妻にし、皇位の座につこうと謀略していた。

タギシミミ:
『イスケヨリヒメよ、神武天皇なきあと
次期天皇に相応しいのはこのワシじゃ!
そこで邪魔なのは、お前が産んだ三人の御子達。
奴らさえいなければ・・・グフフっ!』

石燈籠群
その奥に境内社が祀られている
イスケヨリヒメタギシミミの謀略を知ってしまい、我が子に伝えるように次のように歌を詠んだ。

“狭井河よ 雲立ちわたり 畝火山
木の葉騒ぎぬ 風吹かむとす”
『(ヒメの生家の)狭井河から雲が沸き立ち、(ヒメの住んでいる)畝傍山では樹の葉がざわめく。
いまにも大風が吹く気配よ・・・。』

さらに、
“畝火山 昼は雲とい 夕されば 
風吹かむとぞ 木の葉騒げる”
『畝傍山は昼は雲が動き、夕暮れになれば大風が吹き出そうとして、
樹の葉がざわめいていますよ!』

このメッセージに気付いたは先手をとって、タギシミミを討つことにした。

忠魂碑
決行の夜。

三男のカムヌナカワミミは、
カムヌナカワミミ:
『さあ、兄上。これでタギシミミを殺してください』
と、二男のカムヤイミミに剣を渡したものの・・・
カムヤイミミ:
『わ・わたしにはできない・・・><』
と、躊躇したため、カムヌナカワミミはカムヤイミミが握っていた剣をとり、タギシミミを殺した。

弟はその武勇から、建沼河耳命(タケヌマカワミミノミコト)と称えられた。

石燈籠と境内
・・・その後。

カムヤイミミ:
『私は仇を殺すことができなかった。
兄だからといって、私が上に立つことはよくない。
だから、お前こそが天皇の位につくほうがよい。
私は神事を司る忌人となって、お前を助けよう。』
“吾は仇を殺すこと能はず。汝命すでに仇をえ殺したまひき。
故、吾は兄なれど、上と為るべからず。
ここをもちて汝命上となりて、天の下治らしめせ。
僕は汝命を扶けて、忌人となりて仕へまつらむ。”
と申し、カムヌナカワミミは皇位を継ぎ、第二代綏靖天皇に即位したのであったとさ。

おしまい

参拝後には、すっかり暗くなりはじめて
月がぽっかりと顔を出していた
弟に皇位を譲り、忌人として天神地祇を掌ることとなった多神社の主祭神~神八井耳命(カムヤイミミ)は、後の多臣(意富、太、大、意富、飯富、於保)の祖であり、日子八井命(ひこやい)は茨田連の祖だという。


次回は、多神社の境外摂社で式内社姫皇子神社と、多神社のミステリーについて。
地図に線を引くレイラインマニア(?)は必見です♪

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