駿河の社 焼津神社 日本武尊所縁の古社

焼津神社
(静岡県焼津市焼津2-7-2鎮座)

草薙神社に続いて、日本武尊所縁の地・焼津に鎮座する焼津神社で、かつては入江大明神と呼ばれていた式内社で、JR焼津駅から徒歩7~8分程の位置にある。

焼津という地名は、日本武尊の神話から由来する地名で、古事記では相武の焼遣、日本書紀では駿河国焼津と記されている。

主祭神は日本武尊で、東国征討に従軍した吉備武彦命・大伴武日連命・七束脛命を相殿に祀っている。

銅鳥居
焼津神社について説明する際、やはり記紀神話の引用は必要。
ということで、「おはなし」を要約してみました( ゚ω゚ )

景行天皇の息子であった日本武尊は、九州・熊襲を征討したあと、休む暇もなくヤマト朝廷の逆賊であった蝦夷征討の為、東国へ向かいました。

遠征の途中、伊勢神宮に立ち寄って詣でた際に、ヤマトタケルは別れのあいさつをするために斎王である倭姫命のもとへ行きました。

すると、倭姫命は・・・

倭姫命:
「これを持っていきなさい、草薙剣(天叢雲之剣)と袋です。
もし貴方の身に危険が生じたら、
この袋を取り出しなさいね。」

と云われて、草薙剣と小袋を渡されました。

神宮参拝後、ヤマトタケルは東進して朝廷に従わない者や悪しき神を次々と平定していきました。

境内にある日本武尊像

尾張国を経て相武(駿河)国に至ると、ある国造がやって来てヤマトタケルにこう言いました。

国造:「ヤマトタケル様、
この野の中に住んでいる神さまは、
とても荒ぶる神なのですよ・・・」

ヤマトタケルは、言葉を信じて野原に入ると、なんと国造は、その野に火を放ってしまいました。

国造:「ヒヒヒヒっ!
わしの罠にまんまとひっかかったな!
火よ、どんどん燃えてヤツを焼き殺せ!!」

大火が我が身に迫ってきたヤマトタケルは、辺りの草を剣で薙ぐように刈って、袋の中に入っていた火打石を取り出し、

ヤマトタケル:
「向火よ、攻めてくる火を弱めてくれ!」

と向火をたてて、火の勢いを弱めることに成功し、その国造連中を征討したのでした。

おしまい

拝殿
「おはなし」にて、向火をたてた火打石が焼津神社の御神体といわれ、「火石」「水石」と呼ばれているらしい。また、日本武尊が水石と火石を投げたところ、一つが当社、もう一つが熱田神宮に落ちたという伝承話もある。

本殿
焼津神社
祭神
本殿 日本武尊
相殿 吉備武彦命、大伴武日連命、七束脛命

由緒
当社は記紀記載の如く、第十二代景行天皇四十年七月、日本武尊が弟橘姫を伴い吉備武彦、大伴武日連の武将を従え、七束脛を膳夫として東夷征討の砌、此の地で野火の難に逢われた際、天叢雲の剣で草を薙ぎ、向火を放って、悉く賊徒を討滅されたという御事蹟を伝える御社で、延喜式神明帳登載の駿河国益津郡焼津神社は、即ち当社である。

焼津御霊神社
駿河国諸郡神階帳によれば、神階正四位下に叙され、入江大明神とも讃えられて緒民衆から崇敬されて来た。

創建は、駿河国風土記によれば、反正天皇四年己酉(409年)と云われ、今川氏の代になって社領五百石の寄進を受け、徳川氏に至り、家康は社殿を造営し、又代々七十石の朱印高が附せられている。
明治天皇御東幸の際は、官幣使差出の先触状があったが、官道より遠隔のため沙汰止みとなった。明治六年郷社、明治十六年県社に昇格、昭和四十一年別表神社に加列した。
(焼津神社略記より)

御神木
社殿脇の御神木は、焔のような根の張り出しが特徴的。
火に由来する社だけある、と様々なWEBに書いてあるが、ボクも同様の事を想った。

裏参道の石鳥居
焼津神社の境内は市街地にもかかわらず、とても広々として開放的な雰囲気。
玉砂利が敷き詰められて、境内社を含めて整備がとても行き届いており、いかにも地元に愛されて続けている古社の佇まいを残しているように感じました。


次回は静岡市内に鎮座する徳川氏栄華の匂い漂う古社です♪

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