15 July 2012

東京湾の社 意富比神社 (船橋大神宮)

Location Japan, Chiba Prefecture Funabashi宮本5丁目2−1
意富比神社(船橋大神宮)
(千葉県船橋市宮本5丁目2-1鎮座)

意富比神社は、延喜式神名帳で『下總國葛餝郡 意富比神社』と記載されている古社。
京成線大神宮下駅から徒歩6分程度の地に鎮座している。
神社の西側には海老川が流れていて、古代は太白川(おおいかわ)と呼ばれていたことや、神社名から意富氏(飽富神社・多神社)との関連が想像できる。

一の鳥居
本神社についてウィキペディアで調べてみると、意富比神社が船橋大神宮と呼称されていった理由として、以下の内容が記載されている。(他のHPにも同様の記述あり)
鎮座地一帯が伊勢神宮に寄進されて御厨(夏見御厨)となり、その守護として伊勢神宮の祭神である天照大神を祀る神明社が現在の夏見台の日枝神社に建立されたが、御厨の衰退とともに神明社も廃れ、意富比神社に合祀された。
その後、天照皇大神に対する信仰の方が強くなり、次第に意富比神社の社名は忘れられ、もっぱら船橋神明・船橋大神宮と呼ばれるようになった。
参道
交通量の多い鳥居前の道路から参道に向かうと、外の喧騒が嘘のように静まり返っていた。
想像以上に木々も多くて、とても心地が良かった。

二の鳥居
意富比神社 (船橋大神宮)
祭神
天照大神
万幡豊秋津姫命、天手力雄命
式内社・旧縣社

境内
由緒
景行天皇四十年、皇子日本武尊が東国御平定の折、当地にて平定成就と旱天(ひでり)に苦しんでいた住民のために天照大神を祀り祈願された処、御神徳の顕現がありました。これが当宮の創始であります。
同五十三年、天皇ご自身が御東行、武尊の御功績を御追憾なされ、「意富比神社」の称号を賜りました。
平安時代、延長五年(927)に編纂が完成した『延喜式』にも当宮が記載されており、式内社としての歴史を知ることができます。

後冷泉天皇の御世、天喜年間(1053~1058)には、源頼義・義家親子が当宮を修造し、近衛天皇の御世、仁平年間(1151~1154)には船橋六郷の地に御寄附の院宣を奉じて当宮を再建し、その文書には「船橋伊勢大神宮」とあります。
鎌倉時代、日蓮聖人は宗旨の興隆発展成就の断食祈願を当宮にて修め、曼荼羅本尊と剣を奉納されました。

神門・拝殿
江戸開府の頃、徳川家康公は当宮に社領を寄進、奉行をして本殿・末社等を造営し、以来江戸時代を通じて五十石が幕府から献納され幕末に至りました。
近代に入り、明治天皇陛下には習志野・三里塚へ行幸の都度、勅使を以て幣帛料を御奉奠遊ばされました。
往時の諸社殿の景観は、江戸時代末期の「江戸名所図会」に窺えますが明治維新の戦火のため焼失しました。
その後、明治六年(1873)に本殿が造営されたのを初めとして、大正十二年(1933)以降本殿・拝殿・鳥居・玉垣・参道等に至るまで随時造営が成され、今日に至っております。
(船橋大神宮参拝のしおりより)

左:外宮 (豊受神社) 右:天之御桂宮

拝殿西側には、伊勢神宮を模倣しているのか、外宮(豊受神社)があった。
外宮や天之御桂宮の手前には神楽殿、そして土俵がある。
本神社の例祭に行われる奉納相撲は歴史が古く、天正十八年に行われた徳川家康の上覧相撲に起源を持つという。

裏参道
西から伸びる裏参道。
鳥居の先には、本神社の元宮といわれている式内元宮入日神社へと続く。

左:船玉神社 右:大鳥神社

東参道の鳥居前には船の形を模した船玉神社があり、他にも多くの末社が座していた。
右の大鳥神社は奥社手前に鎮座しており、祭神は日本武尊。
「船橋のお酉様」と、近在の人々に親しまれているらしい。

浅間山灯明台
そして境内の高台にはハイカラな建築様式の灯台が保存されている。
かつての富士塚を利用して作られたのであろう。

浅間山灯明台
かつて、船橋沿岸を航行する船は、意富比神社の境内にあった常夜灯を目印にしていました。
この常夜灯は慶應四年(1868)の戊辰戦争で社殿とともに焼失しました。
明治十三年に現在の灯明台が再建され、明治二十八年に停止するまでの間、政府公認の私設灯台として利用されました。
標高27mの丘の上にある浅間神社のあった場所に建てられたので「浅間山灯明台」といいました。
建築様式は和洋折衷の「擬洋式建築」で、1・2階は和風は和風、3階の灯室は西洋風の六角形のつくりになっています。
(境内案内板より)


次回は「海神」という名の地をブラブラ歩いてみました♪の巻です。

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