東京湾の社 下総の古社 菊田神社

菊田神社(久久田大明神)
(千葉県習志野市津田沼3-2鎮座)

鳥居なき社前
菊田神社は京成津田沼駅から徒歩5分程の位置に鎮座しているお社で、弘仁年間(810年頃)の創建より「久久田大明神」と称していた。
鎮座地である『津田沼』の地名は、谷・久々(菊田)・鷺の字名を繋ぎ合わせて作られたらしい。(ちなみに現在、谷津と鷺沼の地名は残っているが、久久田は津田沼に変更されている。)

上の写真は、東日本大震災後に撮影したもの。
社前には大鳥居があったが、震災により倒壊してしまった。
御由緒に書かれている通り、鎮座地周辺がかつて東京湾に面した入江(久久田浦)だったこともあり、地盤が軟弱だったせいであろう。
『古人の話を大切にせよ』という言葉が胸に沁みる。

境内
(石燈籠等が倒壊していた)
さて、菊田神社は前号紹介した船橋市三山に鎮座する二宮神社と深い関係にある。
菊田神社の社伝によると、『治承四年、藤原師隆、藤原師長卿の一族郎党当国に左遷の砌り、久久田大明神に着船上陸し、後に師経の一族は三山の郷(現在の二宮神社の鎮座地)に移住した』とあり、二宮神社の社伝にも、『治承四年(1180)、藤原師経当国へ左遷の際、同人及び神官と協議して左大臣藤原時平公を本社の相殿に合祀す』と書かれている。

この話を裏付けするかのように、二宮神社の年間行事『お舟流し』では、御手洗池の細流に藤原師経等の乗舟に例えた『すすきの舟』を神社の小川に浮かべて流している。
さらに、二宮神社の参道に流れている小川の水脈は、習志野市の津田沼に鎮座している菊田神社境内の池(現:菊田水鳥公園)へつながっているとも言われている。

拝殿
菊田神社
大己貴命(大国主命)・藤原時平命

由緒
古伝によれば、当神社は久久田大明神と称して、弘仁年間(810年頃)より御社として祭祀されていました。当時は、この境内地は小嶋であって、この嶋を中心として東西両側は丘で、砂土堆積している入江でありました。住民の多くは西側の丘に住居を構えて生活をしていました。
(注:「島」は海上に突き出た山で、「嶋」は、山あいの水辺に人が集まった村や集落のこと)

住民は嶋の上に鎮座されていた御社、即ち久久田大明神を産土神および氏神として奉斎信仰していました。なお、旧九月十九日を例祭の日と定めて、年毎に祭事を執行していました。

本殿
治承四年、藤原師隆、藤原師長卿の一族郎党当国に左遷の砌り、相模国より船に乗船し相模灘を経て袖ヶ浦にと来ましたところ、海上少し荒れていた為に何処か波静かな所はないかと探し求めていましたところが、たまたま久久田浦の入江と嶋を発見しましたので、一同はここに船を漕ぎ来りてこの嶋に着船上陸しますと、住民達が崇敬しているお宮がありました。

即ち久久田大明神のお宮で、師経卿、師長卿は無事に此処まで安着の出来たことはこの祭神の御神徳によるものであるとして深く感銘されて、この御社を崇め奉りてこの地を安住の地と定めることとし、同時に祖先の人皇六十代醍醐天皇の御宇延喜左大臣藤原時平命を合せ祀り住民と共に奉斎崇敬しました。後に師経の一族は三山の郷(現在の二宮神社の鎮座地)に移住したと伝えられています。

その後里移り年変りて入江も浅瀬となり、この嶋の土と東西の丘の土を採取し浅瀬に盛土して水田を拡げて氏神の社名に相応しく永く久しく栄える国として耕作するようになりました。
また、この境内地が船の形をしているのは、師経一族郎党が着船したのを祈念するために浅瀬を盛土するときにこの形を造ったと伝えられています。

御嶽大神
御社号改名
宝暦年間(1741~1762)桃園天皇の御代に社名を菊田大明神と改名(古老の云伝によれば、菊は我が国の名花、菊文字は久久の文字よりも御社名には相応しいとの所似によって改名された)
御社殿
康元年間(1256)に木造に改造営、宝暦三年九月拝殿を造営、明治・昭和に本殿、拝殿改修。

合祀
大正元年十一月、区内各町(本郷、丸田、下宿、浜宿)に鎮座されていた八坂神社、金比羅神社、大山祇神社、水神社、稲荷社、雷神社の御祭神を合祀。
(以上、境内案内板より)

左:大杉神社 右:琴平神社

左の大杉神社は、あんば様といわれ、江戸~明治期に流行した天然痘(ほうそう)流行を防ぐために祈願した民間信仰で、本神社では毎年3月15日にお祭りが開催されているとのこと。
尚、茨城県稲敷郡鎮座の大杉神社から勧請したといわれている。
右の琴平神社は、参道脇に鎮座していたが、震災により石祠が悉く倒壊していた。

次回は、船橋市内に坐する『大神宮』についてです♪

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