3 June 2013

陸奥国一宮 八槻都々古別神社 東北熊野信仰の中心地 

Location 日本, 福島県東白川郡棚倉町
八槻都々古別神社
(福島県東白川郡棚倉町大字八槻字大宮224)

鳥居
久慈川は、源を茨城県の最高峰八溝山(1,022m)を水源とし、福島・茨城両県の山々の間を流れ、日立市久慈町の南方で太平洋に注いでいる一級河川。

「常陸国風土記」の久慈の郡の条に、「久慈」の由来で「郡家から南、小さな丘がある。その形が、鯨ににている。倭武天皇(日本武尊)は、久慈と名をつけられた。」とあり、この郡名に由来している。
久慈川流域に陸奥国一宮とされる古社が数社あり、その中のひとつが今回紹介する八槻都々古別神社である。

国道118号線、水郡線が走っている川の谷合に場所に坐する本神社は、延喜式内社にて明神大社とされ、さらに陸奥国一宮、国幣中社に比定されている大社。
交通量の多い国道沿いにもかかわらず、境内の中は静寂に包まれている。

随神門
随神門には『奥州一宮』という扁額が誇らしげに掲げられている。

八槻都々古別神社は次回紹介する馬場都々古和氣神社(上宮)、茨城県大子町下野宮の近津神社(下宮)とともに、近津三社と呼ばれ、本神社は中宮と呼ばれていた。

祭神は、味鉏高彦根命と日本武尊。
古くから開拓神、農耕神として崇められてきたが、源義家が奥州征伐の時に千勝(=近津)大明神と改称したことから、武神としての性格が加わったとされている。
また、明治時代の神仏分離以前は、会津地方とともに東北熊野信仰の中心地として盛隆を極めていたようだ。

拝殿
八槻都々古別神社は、日本武尊が八溝山の東夷の大将を討った際、守護として示現した三神(天御中主神、高御産巣日神、神産巣日神)が、建鉾山(現在の表郷村大字三森)に隠れた時に放った箭の着いた所を箭津幾(やつき)とし、都都古別神社を創建したのが始まりといわれています。
また、日本武尊が八目鳴鏑で夷賊を射たおした時、その矢の落ちた所を矢着と称し、都々古別神社を創建したともいわれています。
神亀三年(726年)には、矢着を八槻の字名に改めたともいわれています。

本殿
当時、八槻都々古別神社の別当は大善院で、十五世紀の頃には依上保を含む白川家中(白川領内)、また一時は菊多庄(現在のいわき市南域)に及ぶ範囲の熊野参詣先達職を掌握して絶大な勢力を誇り、白川結城氏の代替りごとに神人等の支配権を安堵されていました。
すくなくとも南郷一円の在地領主が八槻神人として組織され、八槻別当の宗教的権威を媒介に白河結城氏の在地領主支配が強化された様子が伺われます。
その後、十六世紀に入り、常陸太田城主佐竹氏の勢力が久慈川沿いに北上し、白川領全土が佐竹氏の占領下に入りましたが、八槻別当は、佐竹氏から神主職と神領を安堵されました。

とても荘厳な雰囲気をした社殿
近世の神社境内には、本殿・拝殿・長床・観音堂・神門・寅卯宮・稲荷宮・寅卯宮拝殿・うす石宮・駒石権現・阿弥陀堂・愛宕社・富士社・やつき権現等がありました。
明治初期の神仏分離によって社内の仏教色は取り払われ、仏堂・仏具・仏像等は見られなくなりましたが、かつては神仏両道の信仰をもっていました。

境内にある池
八槻別当は熊野先達(修験者、信仰者が修行、参詣のために山に入るときの先導者)で、熊野御師と密接な関係にあり、熊野三山奉行乗々院若王寺の支配を受けました。
八槻別当の檀那(だんな・・・寺を経済的に支持する固定的な信者)は、白川結城氏とその配下をはじめ、農民層にまで及んでいました。
また八槻別当は、白川から依上保(現在の茨城県大子町)に至る広い範囲の修験を統括し、八槻別当の管理した近津神社の神領は主に南郷(近津以南)一円だったと考えられます。
(以上、参拝の栞より抜粋)

本殿
東白川郡における熊野信仰の普及ぶりは、「長尾能景過所」と題される越後の守護代であった長尾能景(上杉謙信の祖父)が、明応七年(1498年)に越後国内の所々の領主にあてた文書に、
「奥州下向方卅人、荷物七荷、国中諸関渡、その煩わずらいはあるべからず候」
とあり,当地から熊野へ向かう参詣者への便益を求めている。
このような文書から、八槻別当による熊野への参詣者は、越後・北陸経由で京に入り、それから熊野へ行ったことがわかる。そして、その人数は1495(明応4)年では最大700人にも及んだという。

社域脇を流れる清流、久慈川

古代における蝦夷との境に坐する社、そして中世以降隆盛を極めた東北最大の熊野信仰の聖地、ここ棚倉町は数多くの側面を持つ地なのだな、と感じるのと同時に、そのルーツを深く掘り下げてみたいな、とも思った。

次回は、馬場都々古和氣神社(上宮)です。

御朱印

No comments:

Post a Comment