阿武隈の社 刈田嶺神社 白鳥大明神 (蔵王町宮)

刈田嶺神社(白鳥大明神)
(宮城県刈田郡蔵王町宮字馬場1鎮座)


鳥居
刈田嶺神社は阿武隈川水系白石川と松川とが分岐する地にあり、さらに奥州街道と出羽国(山形)へ向かう笹谷街道との分岐する地にある社で、御祭神は日本武尊。

往古は大刈田山(青麻山)の頂に鎮座したが、延暦十年(791年)、坂上田村麻呂が奥州に侵攻した時、西宮の白鳥神社を合祀したため白鳥大明神と称し、明治元年には正式に刈田嶺神社と改称したという。

参道
旧鎮座地である青麻山は蔵王連峰の東山麓、蔵王町宮にある独立峰(標高799メートル)で、山の創成は蔵王より古い200万年前の火山で、昔から信仰の山として崇められていた。

山頂からは白石川から阿武隈川といった仙南地域や太平洋までを望むことができ、さらに交通の要所でもあることから、蝦夷討伐における極めて重要な拠点のひとつだったのではないかと推測。

ちなみに、蔵王山に鎮座する刈田嶺神社は蔵王権現の社で、当社とは関係ないらしい。

随身門
参道を登っていくと、立派な随身門が建っている。
この門は文政十年(1827)に宮の豪商森家により建築奉納されたものとのこと。

拝殿
当社は延喜式内社明神大に列し、刈田郡総鎮守として、また、伊達家の家臣白石城主片倉家の祈願神社として古くから崇敬を集めた名社で、別号を白鳥大明神とも号した。
往古は大刈田山(青麻山)の頂に鎮座したが、延暦二十年(801年)西山の若宮に相殿となり、永正年間(1504~1511)現地に遷座された。

本殿
本殿は享保三年(1718)に片倉家により、拝殿と随身門は文政十年(1827)に宮の豪商森家により建築奉納された。
向拝蟇又の脚線、虹梁木鼻の彫刻、同袖部の若葉文頭貫の陰模様などに力強い美しさがあり、藩政期の建築様式も残し、学術上きわめて貴重である。
(以上、境内案内板より)

左:扁額  右:梵鐘

扁額には白鳥大明神の銘が刻まれている。
また、神仏習合の名残からなのか、境内には梵鐘があった。

御神木
御神木である夫婦杉。
毎年奉納されるという『百貫しめ縄』は残念ながらまかれていなかった。

ここ蔵王周辺には「白鳥伝説」なるものが存在している。
白鳥は、古くから神の使いとして信仰され、村人は道端で死んだ白鳥や川原で見つけた羽すらも手厚く葬っていたという。
そして、日本武尊といった東国征討に携わった者に纏わる独自の伝説も多いのが特徴。

本神社の祭神である日本武尊について記紀神話にて描かれている「白鳥伝説」については、以下のリンクを参照ください。

Link⇒ 日本武尊御陵と思国歌 能褒野王塚古墳と白鳥塚古墳

本殿裏に進むと、鬱蒼とした森の中に数体の白鳥の絵が彫られた石碑が並んでいる。
この古碑群は、古くより『白鳥塋域』として保存管理されてきたという。

白鳥古碑群
この地方は、古くから白鳥を神のお使いとして尊ぶ習慣があり、その崇拝の証として白鳥の碑が建てられたと伝えられている。

一番左から、寛文十三年(1673年)、
元禄十二年(1699年)、文政十一年(1828年)の石碑

白鳥伝説
往古、日本武尊がこの地に遠征に訪れた。遠征の間、尊はこの地の長者の館に逗留したが、側回りの世話をした長者の娘とねんごろになり一人の男児を授かった、やがて尊は妻子を残して都に帰還していった。
尊と娘との間にもうけられた男児は幼くして非凡だった。
里人は、長じれば必ずこの地を征服するほどになるだろうと恐れ、謀って男児を川に投げ捨てた。

元文年間(1730年頃)に建てられた石碑。

ところが男児は白鳥に姿を変えて西方へと飛び去った。
その後、里では災いが起こるようになった。
里人は神罰が下ったのだと恐れ、白鳥が飛び去った西方の山麓に祠を建てて許しを乞うた。その後、また、この里には平和が訪れたという。

この地域には、長者の娘が暮らした「内方」、男児を投げ捨てた「児捨川」、白鳥となった男児を祀る祠を建てた「西宮」など、白鳥伝説にまつわる地名が数多く残されている。
(蔵王町教育委員会)

・・・どうもヤマト王権の教化のように感じてしまうのは私だけでしょうか?

次回も白鳥伝説の社です。

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