21 August 2013

楯ヶ崎と阿古師神社 伊勢・熊野大神が対峙する神話の地

Location 日本, 三重県熊野市甫母町
楯ヶ崎と阿古師神社~神武天皇漂着の地
(三重県熊野市甫母町609鎮座)

熊野街道(国道42号線)から海岸線伝いに走る国道311号線へ。
道幅が一気に狭くなり、運転を誤ったら崖の下に落ちてしまうような道が続く。
約1時間程走ると、記紀神話『荒坂の津』の舞台地とされている二木島湾に到着する。

二木島湾
ここ二木島は、かつて牟婁(熊野國)と阿古(伊勢國)との境で、『日本書紀』に記された神武天皇東征軍の荒坂津への上陸伝説や千畳敷で盾ヶ崎を望んで伊勢大神と熊野大神が酒盛りしたという伝説が残されている神話の地である。
また、中上健次書下ろしの衝撃的な映画『火まつり』の舞台地。

私自身としては、ある意味『熊野』の地の中で一番立ち寄りたい場所であった。

駐車場から探勝歩道(というかハイキングルート)を約30分歩くと、二木島湾へ辿り着く。
さらに進むと印象的な白い鳥居が蒼い海に向かって立っている。

神武天皇東征の際、海上で暴風雨に遭ってしまい船団は漂流。神武天皇の二番目の兄・稲飯命(稲氷命)、並びに三番目の兄・三毛入野命(御毛沼命)は入水して薨御された。
二木島の土民が両命を発見、帰港して二所に奉葬し、稲飯命の御陵を産土神として祀ったのが室古神社となり、また三毛入野命の御陵を祀ったのが阿古師神社という。

阿古師神社境内
境内は蒼い海に面し、鬱蒼とした山の木々に囲まれてとても神秘的。

さて、本神社を理解するには記紀神話の知識が必要。
なので、神武天皇が熊野に上陸したお話を簡単に・・・。

天孫降臨の地、日向の高千穂峯に降り下った瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)の三代目の子孫、神日本磐余彦(かむやまといわれびこ~後の神武天皇)は兄・五瀬命らと共に、国家統治の場所を東方に求めて倭国に向かった。
豊国・筑紫国・安芸国・吉備国を経て、河内国草香村(日下村)の白肩津に着き、生駒山を越えて倭(大和)に入ろうとするも、河内国を支配していた長髄彦(ながすねひこ)の軍に行く手を阻まれて、神武天皇の兄・五瀬命も戦死してしまった。

阿古師神社 社殿
一行は紀伊の名草邑に着き、名草戸畔(なくさとべ)という紀伊の女王を誅された。
そして、熊野の神邑に至り、天磐盾(熊野速玉大社別宮:神倉神社)に登り、更に海を渡るとき暴風雨に遭い、船は波に翻弄されて進まなくなってしまった。

神武天皇の兄・稲飯命は「ああ、我が先祖は天神、母は海神であるのに、どうして我を陸に苦しめ、海に苦しめるのか。」と嘆き剣を抜いて海に入り、鋤持神になられた。
また、兄・三毛入野命も「我が母と姨は二人とも海神である。なのにどうして波を立てて溺れさすのか」と、波頭を踏んで常世国においでになった。
(つづく)

このとき、海に入水された神武天皇の兄三毛入野命を祀ったのが阿古師神社、稲飯命を祀ったのが室戸神社なのである。

多きなコブを抱えた木と陽光が差す幻想的なお社
由緒
昔、二木島湾を境にして、熊野(弁婁・・・むろ)の国と伊勢(英虞・・・あご)の国に分かれていた。
この地は伊勢の国に属していたことから、阿古師神社の名が付き、向いの神社は室古神社の名が付いたという。
「紀伊続風土記」に「村より卯辰(東南東)の方、出崎を阿古崎といふ。海上渡り二十余町阿古崎の艮(うしとら)、阿古師明神あり。二木島の辰の方の出崎に在する室古明神と入海を隔て東西相対す。阿古師は英虞の神なるべし。」と両神社の関係が記されている。

祭神は豊玉姫命、伊勢大神、三毛入野命との説があるが、このうち、三毛入野命については、神武天皇の兄で、天皇御東遷のとき遭難しこの地に祀られたと伝えられている。

対岸に坐する室古神社へ向いている鳥居
また、「日本書紀」 持統天皇六年(692年)阿胡の行宮において紀伊國弁婁郡の阿古志海部 河瀬麻呂の兄弟が鮮魚を献上したとあるのはこの神社である。

室古神社との間で行われる例祭は従来5月5日と11月2日であったが、現在は11月3日である。神社での古式に則った祭典の後で開催される関船競漕は、8本の櫓を32人で漕ぐ八挺櫓の競争で、水軍や捕鯨の際の勢子船の早漕ぎを彷彿とさせる力強く勇壮で活発なものである。
(以上、境内案内板より)

熊野の千畳敷
阿古師神社を後にして、緑に囲まれた登り下りのある山道をさらに進むこと30分。
巨大な岩盤な続く千畳敷、そして美しい海岸線が突然眼下に広がった。感動。

千畳敷には、楯ヶ崎を望んで伊勢大神と熊野大神が酒盛りしたという伝説が残っている。
また、写真奥の二木島湾を包み込むように聳えている峠は『逢神坂(おうかみざか)』と呼ばれ、伊勢大神と熊野大神が出会う場所だったという。

楯ヶ崎
そしてここが楯ヶ崎。
高さ約80メートル、周囲550メートルにも及ぶ柱状節理の花崗岩(熊野酸性岩)岩塊。
その美しくも荒々しい造景に大感動!!
花の窟にも訪れた平安時代の中期の歌人・増基法師は楯ヶ崎を訪れて、次のような歌を詠んだ。

楯ヶ崎といふところあり。
「神のたたかひしたる所」とて、楯を突いたるやうなえう巌どもあり。
(増基法師集「いほぬし」より 長徳元年(995年)頃)

千畳敷から楯ヶ崎を眺める。
そしてこの地は、日本書紀において神武天皇の上陸地とされている。
日本書紀に、「神武天皇が熊野の荒坂の津に上陸して、この辺一体を治めて住民を苦しめていた丹敷戸畔(にしきとべ)を滅ぼした」と記されており、その場所が荒坂の津(二木島湾の楯ヶ崎附近)といわれている。

海金剛
(先程の神武天皇東征神話の続き)
神武天皇の兄が入水した後、天皇は皇子天研耳命(イワレビコ)と軍を率いて進み、熊野の荒坂の津に漂着して丹敷戸畔という女王を誅された。そのとき神が(古事記では『神の化身の熊』)が現れて毒気を吐いて人々を萎えさせた。
この時、熊野の高倉下(タカクラジ)が布都御魂という神剣を携えてイワレビコノ命の下へ向い、剣を受け取ると気を失っていた一行は眠りからさめ、熊野山の荒ぶる神々はその剣をふるわないうちに切り倒されてしまった。

その後、高天原から降りてきた八咫烏の先導で吉野を経て倭に入り、大和国を平定したのだった。
(おしまい)

「熊野の高倉下」や「八咫烏」などは後に紹介する熊野三山でも登場してきます。

美しくも荒々しい神話の地。
遙かに遠いこの地を巡ることができ、心の底からよかったな、と感じた。

また、今回は神武天皇側に立って記してみたが、紀の国の女王~名草戸畔・丹敷戸畔の側のストーリーはどういうものなのだろう?
一度じっくり調べてみよう。

また、出雲の風景に類似しているようにも思えたので、リンクをご参照を。
参照Link⇒出雲路を歩く~日御碕の風景

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