1 October 2013

熊野三山の根源 熊野本宮大社 大斎原

Location 日本, 和歌山県田辺市本宮町本宮
熊野本宮大社 大斎原

大斎原と熊野川
熊野那智大社(那智大瀧)から熊野古道中辺路屈指の難路、雲取越~大日越(約40km)の道程を踏破して、いよいよ最終目的地~本宮へ。
大日越の道中から大斎原の社叢が見えたとき、無事に辿り着いた安堵の気持ちと念願の熊野本宮大社に足を踏み入ることができた達成感で胸いっぱいになる。

熊野古道大日越入口附近に熊野本宮大社末社である真名井社があったのだが、長い巡礼の疲れからか失念・・・。せっかく湯峯王子~月見岡神社を経由してきたのに残念。

音無川
早速大斎原(おおゆはら)へ参詣。
『境内無断撮影禁止』という看板が立っていたので、写真撮影は垢離場(禊川)である音無川に架かる橋までしか撮っていません。

大斎原は『大湯原』とも呼ばれ、熊野川と音無川の中州にある、かつての熊野本宮大社の旧社地で、熊野十二権現の上四社を除く中四社、下四社の神々を祀っている。
明治以降の急激な森林の乱伐により山林の保水力が失われ、明治22年の大洪水により社殿が流されてしまい、現在地に遷座した。

境内にはかつて社殿のあった地に大きな石祠が2基祀られているのみ。
とても静寂に包まれていて、心が凛と引き締まるような空間でした。

創建については諸説があるが、「熊野三巻ノ書」によると、崇神天皇六十五年、天竺(インド)のマカダ国から飛来した熊野神が大湯原(大斎原)のイチイの樹の梢に三枚の月となって天降りした。
巨大な猪を射とめてその樹の下で一夜を明かした石多河(富田川)の猟師、熊野部千代定が不思三枚の月を不思議に思い、こう訊ねてみた。

千代定:「月よ、あなたはなぜ天を離れて、このような木の枝にいるのですか?」

月:「我は熊野三所権現である。中央の私は證誠大権現(家都美御子大神)で、両側の月は両所権現(熊野夫須美大神・速玉之男大神)である。」

と、神勅が下されたので、千代定は驚いて合掌し、樹の下に三つの宝殿を造って遷座したというのが始まりとのこと。

また、主祭神の家都美御子大神について、在地の土地神(熊野坐神)だったとされる説や木の神である五十猛神だったとされる説等ある。

平安時代になると、神仏習合により熊野の神々は仏と融合して、

熊野本宮大社の主祭神 家都美御子神 ⇒阿弥陀如来
熊野速玉大社の主祭神 熊野速玉男神 ⇒薬師如来
熊野那智大社の主祭神 熊野牟須美神 ⇒千手観音

を本地仏とし、熊野三山本宮は西方極楽浄土、新宮は東方浄瑠璃浄土、那智は南方補陀落浄土の地であると考えられ、熊野全体が『浄土の地』であるとみなされるようになった。

そして末法思想により浄土信仰が広まってきた平安時代末期、三山詣を繰り返す上皇による『熊野御幸』に始まり、南北朝~室町時代以降、『浄土の地』を訪れ再生しようとする貴族、武士、庶民達が『蟻の熊野詣』と称される程、多くの参詣客が遠路から大斎原を目指して巡礼の旅をするようになっていった。

旧社地 「大斎原」
ここは、大斎原と称して、熊野本宮大社の旧社地。明治二十二年夏、熊野川未曾有の大洪水にて、上、中、下各四社の内、上四社を除く中下社の八社殿二棟が非常なる災害を蒙り、明治二十四年、現在地(ここより西方700メートルの高台)に御遷座申し上げ、今日に至っております。中四社、下四社の御神霊は旧社地に、仮に石碑二殿を造営し、西方に、中、下各四社を、東方に、元境内摂末社(八咫烏神社、音無天神社、高倉下神社、海神社他)をお祀りしています。

中四社
第五殿   忍穂耳尊 
第六殿    瓊々杵尊
第七殿    彦火火出見尊
第八殿    鸕鷀葺不合尊
下四社
第九殿    軻遇突智命
第十殿    埴山姫命
第十一殿  彌都波能賣命
第十二殿  稚産靈命
(以上、境内案内板より)

末社 産田社
大斎原から熊野本宮大社に向かう途中に、伊邪那美命の荒魂を奉る熊野本宮大社末社産田社があった。
産田社近くの土手に腰かけて大斎原の風景をぼーっと眺めて、那智大社からの山行による疲れを癒していました。

次回は、いよいよ最終目的地~熊野本宮大社です♪

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