5 October 2013

熊野三山 熊野本宮大社と祓戸王子跡

Location 日本, 和歌山県田辺市本宮町本宮
熊野本宮大社
(和歌山県田辺市本宮町本宮1100鎮座)

正面鳥居
大斎原を経ていよいよ熊野三山巡りの最終目的地である熊野本宮大社へ。
『熊野那智大社からの熊野古道中辺路(雲取越~大日越)を徒歩で参ってきただけあって、本宮の地に辿り着けたのは、実に感慨深く・・・』と綴りたかったのだが、

社前には観光バスがひっきりなしに停まり、多くの観光客が記念撮影や大声で話をしていたり・・・
今回の熊野旅で一番世俗的な場所だったことは間違いない(笑)

まあ、現代版『蟻の熊野詣』だと思えばいいさー。

参道
大斎原同様、本神社の神門先を撮影するには神社の許可が必要。
よって、社務所にて神門内での写真撮影の許可を頂いた後、瑞垣内へ。

ちなみに神門は修繕中のため、無機質な鉄骨とシートに覆われていた。残念。

本宮(誠証殿)
熊野本宮大社は熊野三山の一社で、かつては大斎原にあったが、明治22年の大水害により社殿が倒壊。その2年後、約700メートル先に高台にある現在地に遷座した。
熊野十二権現のうち、上四社を本神社に祀り、中四社、下四社は旧社地の大斎原に祀られている。
主祭神は家都美御子大神(素戔嗚尊)で、昔は熊野坐神と呼ばれていた。
御由緒等は大斎原(Link)にて記しておりますので、ご参照の程を。

結宮
さて、もともとの熊野の神は、古代より『大自然』を御神体として崇めた原始信仰からなる。
新宮速玉の『巨岩』、那智の『滝』のように。

しかし、ここ本宮の場合はなんだろう?
熊野川の『水』なのか?熊野三権現が降臨したといわれる『イチイの木』なのか??

本宮は地理的に交通の要所であり、熊野古道の大辺路、中辺路、小辺路、大峯奥駈道などがここ本宮に集結しており、十津川や熊野川といった水運にも恵まれている。
(当時、熊野古道がなくても、近似した山道は存在していたのであろう)
さらに紀南~熊野地方は、熊野市岐南町にあった紀州鉱山に代表されるように、かつての金、銅、鉄等の産出地であり、武器や装飾具の原料となる地下資源は時の権力者にとって必要不可欠なものであった。
(よって熊野には「一本だたら」という精錬に関連した妖怪がいる ⇒詳細は多度大社の一目連神社を参照)

左:本宮 右:若宮
このような要地を治めるために、ヤマト王権は、出雲族の移民(武装住民)をここ本宮に移住させて、出雲国意宇郡の「熊野の神」を遷祀し、土着民を教化させたのかもしれない。

そのように考えてみると、
Link⇒ 『日本火出初之社』熊野大社(島根県)と本大社との関連付けができそうな気もする。

その後、都(京都・奈良)から見て『隠国・熊野』の玄関口のような場所に位置する本宮は、浄土信仰の隆盛と相まって、熊野三山の一大中心地として発展し、意味合いも変化していったのであろうか・・・。

鈴門
御祭神
本宮 第三殿(証誠殿) 家都美御子大神(素戔嗚尊)
結宮 第二殿(中御前) 速玉大神(意邪那岐大神)
結宮 第一殿(西御前) 夫須美大神(伊邪那美大神)和魂、事解之男神(相殿)
若宮 第四殿(東御前) 天照大神 (若一王子)

本宮の創祀
熊野国造家の開祖は天孫邇邇藝命の御兄君天火明命です。その子孫にあたる高倉下は熊野の村に在って神武天皇に天剣布都御魂(フツミタマ)を献げてお迎えし、時を併せて高御産巣日神は天より八咫烏を遣わし大和の橿原まで導かれました。
第十代崇神天皇は大和民族の旨は神を祀ることとお考えになり、時を前後して神宮(伊勢)や本宮(熊野)が奉祀されました。
第十三代成務天皇の御代には国々の境(県境)が決められ、紀伊半島の南半分(志摩半島より南)が熊野の國と定められ初代の熊野國造(長官)には高倉下の子孫大阿斗宿禰が就任しました。

八咫烏郵便ポストと拝殿
この様に、熊野國造家とは天津神の子孫で、物部氏の先祖に当り、特に天神地祇の子孫に当たる氏の事を神別諸氏といいます。
神代の時代、この熊野の地を治めた天孫系神別諸氏の日神信仰によって創立したのがこの本宮で、それは熊野の大神の神遣が太陽の化身「八咫烏」であることも本宮祭神であったことを物語っています。
熊野信仰とは一言で云えば太陽の黄泉返りを願う祭礼です。
その後本宮は千数百年に渡り熊野国造家の子孫によって代々お祀りされることになります。
(以上、配布資料より)

満山社
第一殿~第四殿の脇には満山社。
かつては磐座が祀られていたが、現在は磐の上に祠が建てられている。

満山社 (結びの神、八珀萬の神)
第四殿脇に玉石が坐している。平成十九年九月、115年ぶりに御社殿を復興された。

熊野本宮大社裏参道鳥居
現在の熊野本宮大社境内にも祓戸王子が祀られているが、実際の祓戸王子跡は、裏門鳥居の先に坐している。
世俗的な雰囲気が漂っていた表参道とは違い、裏参道はとても静寂に包まれていて、ヒンヤリとした雰囲気。

祓戸王子跡
北鳥居から歩いてすぐ先に「祓戸王子跡」の祠が祀られている。

祓殿王子跡
前世と現生に心身に積もった汚れを祓い清め、日本第一の霊験をもって知られる熊野三所権現の神威にすがって、祈願し、生命力を蘇えらせることを目的とする熊野参詣では、禊ぎや祓いが重視された。
中でもこの王子の祓いは、熊野本宮参詣の前に行うもので、これまでの道中での祓いにも増して重要であった。

天仁二年(1109年)に貴族・藤原宗忠は、水呑王子に参拝したのち野路をたどり、祓いを済ませてから本宮の宿所に入って、翌日の参拝に備えた。
また、およそ百年後の建仁元年(1201年)に、和歌の講師として熊野御幸に供奉した帰属・藤原定家は、この王子近くの地蔵堂で後鳥羽上皇の一行を待ち、本宮の神前に向かった。

さて、祓戸は中上健次著「紀州」によると、明治二十二年の大洪水の際、川を堰き止めた山周辺にあった苔部落が移った地でもある。
そして、熊野本宮大社が流された未曾有の大水害から約120年後の平成23年、台風12号により那智大社社殿は土砂崩れで一部埋没、那智大瀧の滝壺周囲も土砂が堆積してしまい、現在も尚、復旧工事が行われている。

熊野は自然に対してとても敏感な地である。

黒潮は「マレビト」を運ぶ海路だけでなく、南方から発達した「荒ぶる神」である台風も運んでき、紀伊熊野はその通り道でもある。
このような地だからこそ、古代より住みし地元の民は自然に対して深く畏怖の念を持ち続け、今日に至っているのであろう。

浄土の地や隠国、異郷、根の国といった外から与えられた形容詞とは関係なく。

これにて熊野古道巡りは終了。
次回は口熊野~田辺へ。


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