関東の古社 一言主神社 (下総國)

一言主神社
(茨城県常総市大塚戸町875鎮座)

一の鳥居
一言主神社は大同四年(809年)、大和国葛城の一言主神社を勧請し祀ったのが創建と言われているお社で、菅生沼の東にある「三竹山」と呼ばれる小高い丘に鎮座している。

鎮座地周辺を流れる鬼怒川流域は古来から居住地で、縄文遺跡や古墳が点在しており、江戸時代は舟運として栄えていたという。

境内
本神社の祭神は一言主神で別名事代主神。
出雲の国大国主神(出雲大社)の長子であるといわれている。

金剛山頂葛木神社、高知市土佐神社縁起によると、第二十一代雄略天皇が葛城山に猟された時、面貌容姿が天皇に似た人が現れ、吾は一言主神なりと名乗られ、天皇と共に猟されたが、一頭の鹿を逐うて矢を射るに、互いに譲り合われ、その言葉は逢仙にようであったと載せてある。
その他、国譲り神話などでも登場する神さまですね。

拝殿
一言主神社
 一言主神社の社伝によると、大同四年(八〇九)現在の社殿の西方に雷光を放つ筍(たけのこ)が生え、数夜にして三岐(みつまた)の竹に成長した。不思議さに村人が行者に祈祷させたところ、一言主神の託宣があり、この地に社殿を造営し、大和国(奈良県)葛城の一言主神を迎え鎮斎したのが創祀と伝えられている。一言主神社が「三竹山」と称される所以である。
 一言主神は、出雲の大国主神の長子で別名事代主神とされ、言行一致の神、一言の願い事でもおろそかにせず願いをかなえる神として篤い信仰を受け、県外からも多くの崇敬者が参拝に訪れる。

本殿
本殿は、社殿によると、長禄三年(一四五九)に下総国守谷城主相馬弾正胤広侯(平将門の後裔)の寄進によって再建されたとされている。現存する社殿は、元禄一三年(一七〇〇)正月遷営のときに大修理が行われた。一見社流造(いっけんしゃながれづくり)で、屋根は桧皮葺(ひわだぶき)風の銅板葺。身舎(もや)外壁の左右に「鳳凰と牡丹」、後側に「鶴と牡丹」の彫物が釘止めされ、脇障子には「三岐の竹」の彫物がはめられている。本殿は、昭和五九年(一九八四)市指定文化財に指定された。

御神木
九月一三日の一言主神社秋季例大祭の奉納行事である「葛城流からくり綱火」(指定名「大塚戸の綱火」)は、あやつり人形と仕掛花火とを結合させたもので、空中に張り巡らした綱により花火のついた人形(木偶/でく)を操作し、芝居を演じる民俗芸能である。万治二年(一六五九)大塚戸村向山に三峰神社が開基されるにあたり、村民が花火を奉納したのが始まりとされている。江戸時代より一言主神社の奉納行事として永く伝承されてきたが、終戦直後の昭和二十二年(一九四七)諸般の事情により中断。しかし、昭和四十四年(一九六九)に大塚戸芸能保存会によって復活上演されるようになった。
 昭和五十五年(一九八〇)に市指定、平成十一年(一九九九)には県指定無形民俗文化財となった。
水海道市観光協会/水海道市教育委員会

小口積石棺
社殿脇にあった珍しい石棺。

この出土品は、神社の西北1500メートル先にあるこの地方最大の大塚戸古墳群のうちの一つであり、珍しい小口積石棺である。
今より千数百年前の古墳後期のもので、縦30メートル、横22メートルの前方後円式古墳から発掘したという、南方民族が当時すでに利根川を溯って此の地に安住し文化をもたらし神社の創立(平安時代、平城天皇、大同四年、西暦809年)となったことが伺われる。

左:石祠 右:御神水

本殿裏手の社叢には多くの石祠が奉られていた、また、御神木脇には御神水が。


左:摂末社 右:謎の大石

社殿脇には摂末社が祀られ、御神石のような大岩も奉られていた。

鎮座地は『三竹山』と呼ばれているがその由縁となるのが下記の民話らしいです。

今より千百五十余年前、今の社殿のあるあたりに奇しき光現れて、雪の中に忽然と筍が生じ、三岐の竹となりました。
冬の時期余りに不思議に怪しいので、村人が俄にお祓いをし、湯立の行事をしてトいますと、

「吾は大和國葛城山に居る一言主大神なり。今東國の万民の災禍を救わんが為に来れるなり。即ち此の三岐の竹を以て永く契とせよ。」

云々と託宣せられました。

依って村人これに驚き、此処人跡を禁じ、社殿を造りお祀りしたのです。
其の後も時折三岐の竹が生えるので、三竹山と呼ぶようになったのであります。
(境内案内板より)

次回は、下総の英雄~平将門所縁のお社です♪

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