13 December 2013

関東の古社 大国神社(上野国)

Location 日本, 群馬県伊勢崎市境下渕名
大国神社
(群馬県伊勢崎市境下渕名2827鎮座)

大国神社は上毛街道(国道17号線)沿いにある社で、旧境町に鎮座している。
祭神は大国主命で、配祀神として、丹波道主王命の子 渟葉田瓊入媛命、竹野媛命、日葉酢媛命、垂仁天皇后真砥野姫命、筋瓊入媛命を祀っている。

立派な拝殿
創始は垂仁天皇九年で、天皇の勅命により奉幣使として当地に着いた百済車臨によって建立されたという。
その後、丹後国穴太郷より五媛の宮を奉遷して合祀したので、当社を「五護宮」又は「五后宮」、「第五姫大明神」とも称されていたという。

渡来人が拓いた地域に建立されたと思われる社。
しかし、何故、丹波道主王命の子(渟葉田瓊入媛命、竹野媛命、日葉酢媛命、垂仁天皇后真砥野姫命、筋瓊入媛命)がこの地で配祀されているのであろう?

上野国式内十二社大国神社縁起
境町大字下渕名字明神縁起

祭神 大国主命
配祀神 丹波道主王命の子 渟葉田瓊入媛命、竹野媛命、日葉酢媛命、垂仁天皇后真砥野姫命、筋瓊入媛命
外三柱 罔象女旧御手洗神社祭神、素盞鳴命、事代主命、旧八坂神社祭神

本殿
延喜式神名帳に上野国大国神社あり。上野国神社名帳に従一位大国神社とあるは即ちこの社である。

縁記に曰く人皇第十一代垂仁天皇の九年庚子四月より風雨順ならず、大旱打続いて蓄斃死するもの数を知らず、天皇深く之を憂ひ給い諸国の神明に奉幣せられ、東国には百済車臨遣はされて、車臨この地に来り老松の樹下に宿る。之れ即ち御手洗の亀甲松であった。
偶々明旦前池に白頭翁の手洗ふを見たので問ふた叟は何人ぞと翁答いで曰く吾は大国主の命である。
汝は誰だと車臨容を正して「吾は天皇の勅を奉じて風雨順時疫病平癒の奉幣使百済車臨である。願くは国家の為に大難を救助し給へ」と翁唯々と答ふ。

言下に雲霧咫尺を辨せず翁の姿は消えて影もなし須叟にして風巽より起り、甘雨澎湃として至り前地忽にして淵となった。
因って此の郷を渕名と呼ぶ様になり、これから草木は蘇生し悪疫悉く息み五穀豊饒土蒼生安穏となり天皇深く車臨を賞して左臣の位を授け大国神社を此の処に祀らしめ此の地を賜ったと云ふ。

社殿に掲げられてた扁額
仝年十五年丙午の年九月丹波国穴太郷より五媛の宮を奉遷して合祀した故に古より当社を五護宮又は五后宮とも書き第五姫大明神とも称した。
此時第五媛の神輿に供奉した舎人に松宮内 大須賀左内 生形権真人 石井田右内の四人があり、松宮内の子孫代々当社の祀宮として明治に至ったと伝へられて居る。

後称徳天皇の神護景雲元年従五位上佐位采女勅を奉して上毛に下り社殿を修造し国造の神として、渕名荘三十六郷の總鎮守として尊崇殊に篤かった。
文化元年甲子現在の社殿を改築し、明治七年熊谷縣管下北方十六区佐位郡波両郡四十二ヶ村の郷社に列し仝四十二年二月神饌幣帛料供進社に指定されたのである。

世界大戦後は、祭典を止められ神社の財産も開放となったが由緒ある神社で、氏子を始め、四隣からの崇敬は目を追ふて古にかへりつゝある境内は貮千四百七十六坪地は天然の丘陵に位置し、近くは太田の金山遠くは常陸の筑葉山と相対し遥かに西南を望めば上武の連峯は雲烟模糊の間に縹沙として遠近の風光を収めて居る云え。
社前は延徳二年庚戌四月十六日本願法名清本秀行刻せる石浄手鉢一基あり、元御手洗の社前より移したものといふ。
(以上、境内案内板より)

社叢
さて、境内案内板による略記を読んでも、いまいち・・・分かりづらいので、少し意訳に挑戦してみました。(文責は負いませんのであしからず)

『垂仁天皇九年四月から日照りが続いて干ばつになり、多くの家畜が飢え死になり、天皇は深くこれを憂い諸国の神社に奉幣し、東国には百済の車臨が遣わされた。

ある早朝、池で白髪の翁が御手洗池で手を洗うのを見て・・・
『誰ですか?』と、車臨が質問すると、
翁は『我は大国主命である。貴様こそ誰だ?』と尋ねると、
『私は天皇の勅命を受けて、雨乞い、疫病を平癒するために奉幣に遣わされた百済車臨です。(大国主命よ)願わくは国家の為に、この大難を救いくださいませ」と、翁に唯々と答えた。

社叢の先には石祠が。

その裏には『郷社 祭神 大国主命』
と書かれた社標が立っていた
すると、翁の姿は消えて、しばらくすると風が吹き、恵みの雨が激しく降り、翁がいた場所に大きな池ができた。
よって、この地を渕名と呼ぶようになり、草木は蘇えり、疫病もなくなり、多くの作物が実り、安穏となった。
天皇は深く車臨を讃え、左臣の位とこの地を授けて、大国神社をこの地に祀ったとさ・・・。』

・・・如何でしょうか?

大国神社の石幢
そして、この石幢は、縁記に出てくる御手洗池畔で出土されたと伝わる「大国神社の石幢」

大国神社の石幢
村の人たちが「御手洗の石燈籠」と呼ぶこの石幢は、昔近くの御手洗池畔で出土したと伝えられ、長い間人々の信仰を集めてきた。彫られた銘文により室町時代の延徳二年(1490年)に作られたものとされている。
(境内案内板より抜粋)

見事な社殿に、緑深い社叢、そして興味深い縁起。
長い歴史を感じることができる古社でした。

次回は上野国~温泉の社です♨

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