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沖縄久高島巡礼 カベール(神屋原) 竜宮神が鎮まる岬


久高島の旅、すっかり更新が疎かになってしまいました・・・。
今回は最終回、久高島の最北端にある岬、カベールです。

延々と続く一本道を進んでいくとその先に水平線が見えてきます。
それにしても素敵な聖なるクバの並木道です。

一本道の終点に進むと美しい海、そして荒々しい波しぶきが打ち寄せてきます。
ここがカベール(神屋原)と呼ばれる岬です。

琉球の始祖アマミキヨが降り立ったという伝説が残り、竜宮神(タティマンヌクカグラー)が鎮まる神聖な場所。
また、壬の日(入梅)にここより神さまは馬に乗って島の廻りを巡視するすると伝えられています。

旧暦の1月のヒーサチにはこの岬で一年中の大漁祈願が行われているといいます。
(以上、パンフレットより要約)

岩が波によって浸食されて、まるで怪獣が口をあんぐりと開けているかのようです。

イノー(礁湖)と竜宮がある大洋との境目がくっきりと分かりますね。
それにしても美しい海!
願わくばこのままの状態で保ってもらいたいものです。

帰途途中にある大きなガジュマルの木。
まるで精霊が佇んでいるかのようです。

これにて久高島の旅についてはこれにておしまい。
入島した日は雨風が強くて、どうなることやらと思いましたが、元旦は快晴となって良かったです。
再びこの地に戻れるよう心より祈っております!

次回は再び沖縄本島に戻って東御廻りの礼所を訪ねます。

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沖縄久高島巡礼 徳仁川拝所と久高島の町並み

安座真港からフェリーで約20分程で、神の島と謳われる久高島へ到着。
徳仁港周辺のイラブーガマ(ウミヘビの収穫地)がお出迎え。

船着場に近くにある森と共存したような岩場の手前に徳仁川拝所と呼ばれる拝所があります。

まずはここで一礼。
とても趣きある拝所です。

しばらくの間、集落を地図に頼らずにのんびり散歩。

到着した時間は雨が降ったり止んだりの亜熱帯特有の天気。
地面がしっとり濡れた町並みも悪くありません。

海なし県民にとって、非日常的な風景。
軒先で網を干すなんて、憧れです(笑)

屋根を見上げると、シーサーが口をあんぐりさせて、『アーー!』と吠えている。

木陰を見下ろすと、ニャンコが身体を丸めながら雨宿りをしている。

ちなみに、島内には野良ネコがたくさんいました。
パンフレットも「久高島 猫の巻」というタイトルなので、きっと有名なのでしょう。

雨に濡れたハイビスカス。
真冬なのに満開でした。

味わいのある商店の門構え。
我々は内間商店という集落のど真ん中にあるお店でお酒等を買い込みました。

使われなくなったイラブー燻製場。
有名なバイカン小屋については後程たっぷりと。

漁港方面へ行ってみると、ズブ濡れになった子供たちが元気よく「こんにちは!」と挨拶してくれた。
過疎化、高齢化が叫ばれる離島だが、この島には多くの子供たちが住んでいるように感じ、少し嬉しくなった。

その子供達がいた方面へ歩いてみると、茂った森の中に一本の巨木が。
脇に置かれた案内板を見ると、『前ヌ浜のスーキ』というらしい。

前ヌ浜のスーキ(和名モンバーキ)は高さ8.8メートルで県内では最大で最も古い木と思われる。昔はこの木で水中眼鏡が作られた。
(知念村教育委員会)

スーキの巨木の先には青い砂浜。
多くの船が往来し、先には本島・斎場御嶽がくっきりと見ることができます。

島内の集落は小1時間もあれば、一周出来る位こじんまりとしております。
観光化されていない古き琉球の匂いを嗅ぎに巡ってみるのもよいかもしれません。

次回はいよいよ聖域へ。


信濃探訪 : 守矢史料館 一子相伝の古代諏訪口伝

古代諏訪の土着信仰を伝える
神長官守矢史料館(1)


諏訪大社上社本宮と前宮との中間地点に、守矢史料館がある。
この付近は高部という集落で、数多くの遺跡や史跡などがあり、諏訪地方の縄文時代~中世の神事などが凝縮されたディープな集落なのである。

この守矢史料館は、諏訪大社上社の神長官を務めてきた守矢一族が代々守ってきた古代神事や、戦国時代の武田家、村上家、真田家などの書状、そして江戸時代中期に菅江真澄によって、描かれた御頭祭の神饌の実物復元等・・・と、内容盛り沢山の史料館。

立派な門構えの玄関。
左側には「祈禱殿」という建物がある。
明治5年に神職の世襲が禁じられたために、一度壊されたが明治20年に再建。
守矢家の言い伝えでは、祈禱殿の中で深夜に一子相伝が口伝によって行われていたという。

これが外観。
有名な建築家、藤森照信氏が手掛けた初の建築作品らしく、建物内の構造とかを見に来る関係者も多いとか。

まずは、守矢家代々に伝わる一子相伝のお話について。

一般的に諏訪地方は「古事記」による国譲り神話とは別にもうひとつの土着神話がある。

それによると、大和朝廷による日本統一以前、出雲系の稲作民族を率いた建御名方命(タケミナカタノミコト)が諏訪にやってきた時、以前から暮らしていた洩矢神(モリヤノカミ)を長とする先住民族が天竜川河口で戦い、洩矢神は負けてしまった。

この洩矢神が守矢家の先祖神と伝えられている。

出雲から侵入した建御名方命は諏訪大明神となり、ここに現在の諏訪大社の始まりとされている。
尚、出雲族は先住民族の洩矢神を邪神として扱わずに、今でいうところの懐柔政策をとった。

よって、建御名方命の子孫である諏訪氏が、諏訪大社の大祝(おおほうり)という生神の位につき、洩矢神の子孫である守矢氏が神長という筆頭神官の位に就いた。

こうして、諏訪の地には、大祝と神長による独特の諏訪祭政体は古代、中世と続いた。
*注釈:洩矢神は石木の神とされ、他に蛇神のソソウ神、狩猟の神チカト神などが土着信仰としてあったらしい。

そして、諏訪大社の祭政体はミシャグチ神という樹や笹や石や生神・大祝に降臨する精霊である。
後に紹介する前宮と神殿、そして冬季に掘られた竪穴である御室(みむろ)や十間廊、八ヶ岳山麓の御射山で、数多くの神事が行われた。

その中で最も有名な諏訪古代信仰のルーツである『御頭祭』の復…

「今伊勢に坐する元伊勢」 酒見神社

伊勢への道
『今伊勢』 中嶋宮~酒見神社
(愛知県一宮市今伊勢町本神戸字宮山1476)

酒見神社は一宮市今伊勢町に鎮座する社で、真清田神社から徒歩15分程離れた場所にある。「元伊勢」と呼ばれる社で、かつ清酒醸造元祖の社とも言われている。

「元伊勢」とは、現在の伊勢の皇大神宮に祀られる以前に、大和、丹波、伊賀、尾張などを巡って一時的に祀られていたとされている神社のこと。

「元伊勢」については、日本書紀で次のように記されている。

“それまで天照大神・倭大国魂神二神を天皇の御殿の中に並べて祀っていたが、崇神天皇五年以降、国内には疫病や飢饉が発生し、反逆する輩まで現れました。
崇神天皇は、『これは両神のお力があまりに強いからだ』と畏れ、両神を共に並べることに対して、不安を覚えました。
そこで天照大神を崇神天皇の皇女・豊鍬入姫命に託し、大和の笠縫邑に祀り、その地に堅固な神籬を造りました。

その後、更に理想的な鎮座地を求めて各地を転々とし、垂仁天皇の第四皇女・倭姫命がこれを引き継いで、現在の伊勢に遷座しましたとさ。”
(日本書紀・崇神天皇の巻及び追記より)

当Blog⇒大和神社をご参照ください。

長い参道の先には、とても厳かな雰囲気を持つ社殿群が鎮座している。
この神社の社殿は北北東向きになっているが、これは参拝する先に伊勢神宮(皇大神宮)があることに由来している。

社地には目久井の車塚古墳があり、寛政元年に半円方形帯変形四獣鏡が出土され、さらに明治の始めには、楠の大木をくり貫いた船が発掘されたらしい。倭姫命世記によれば、倭姫命等が鎮座地に来られる際に使用された御船は美濃の国造が一艘を、美濃の県主が二艘の御船を献った、とあることから、倭姫命が使用された船ではないか?としている。

さらに、清酒醸造元祖の社としても有名らしく、大邑刀自、小邑刀自二人の酒造師が皇大神宮から持って来られた大酒甕二個は、今も本殿裏の両側地下1メートルの処に埋められているという。甕を埋めて醸造する方法は「支那式醸造法」と呼ばれる中国の清酒醸造法とのこと。

当神社は『吹抜の宮』と呼ばれ、土地の者は『宮山』と呼び、その後当神社に一時この地方で醸造された酒の検査所があったことから、酒見神社と尊称せられたとのこと。
(酒見神社案内記より抜粋)

中嶋宮 酒見神社
(倭姫命十五番目御聖跡)
祭神
天照皇大御神、倭姫命、酒…