25 November 2010

上州上武紅葉の旅 金鑚神社 奥宮へ 鏡岩と弁慶穴

上州~上武紅葉の旅
武蔵國二宮 金鑚神社(かなさなじんじゃ) 
「奥宮(御嶽山)へ」



御嶽山への山道の入る前に鎮座していた味わい深い石祠。
緑がかった苔の色が石とうまく調和していて美しい。

そして颯爽と奥宮へ。
木々に囲まれて、マイナスイオン全開心が和みます。

・・・と、思ったら道の途中に木が倒れていた。
「人生山あり、障害物あり」ですね。

この山道には、数多くの俳句の碑があったり、道祖神などが数多く並んでいて、なかなかおもしろい。
ちなみに牛若丸の石像もあった。
金鑚神社は源義家とも関係があり、奥州「前九年の役」で出陣の際に、この地に戦勝祈願をして「義家橋」を架けたらしい。

急な登り坂をずーっと登ったところに、『鏡岩』という国特別天然記念物の巨岩がある。

御嶽の鏡岩は、約一億年前に関東平野と関東山地の境にある八王子構造線ができた時の岩断層活動のすべり面である。岩質は赤鉄石英片岩で、赤褐色に 光る岩面は、強い摩擦力により磨かれて光沢を帯び、表面には岩がずれた方向に生じるさく痕がみられる。岩面の大きさや、断層の方向がわかることから地質学的に貴重な露頭となっている。
(案内板より抜粋)

岩づたいに登ると、念願の(!?)弁慶穴を発見。

・・・一気に興奮が冷めてしまいました(苦笑)
しかし、行こうと決した場所に到達できたのは、やはり嬉しいものだ。

せっかくだから、中に入ってみた。
周りの眺望は残念ながら木々に遮られてしまってよく見えなかったが、まあ弁慶のように腰掛けられたので良かった(??)

石仏が並ぶ小さな広場のような場所から獣道を登って数分。
ようやく奥宮に到着!

岩の上にある石が奥宮頂上。
こんなに天気が良いにも関わらず、誰もいない!
御嶽山を独り占め!!状態です☆

ここが金鑚神社奥宮の石祠。
恐らく近年に造り直したのであろう。

山頂から見た神社及び周辺の集落。
恐るべし、一眼レフの望遠レンズ(笑)

(多分)赤城山方面。
長ーい裾野に、前橋・高崎及び工場地帯を一望できる。

こちらは、恐らく鬼石方面だと思う・・・(汗)
西から雲が広がり始めてきた・・・。

この山が金鑚神社の神奈備(御神山)である御室ヶ嶽。

西暦100年(2世紀)頃、ヤマトタケルが東国遠征時に、倭国姫より預った火打石(火鑽金)を御室ヶ嶽に奉納し、天照大神、須佐之命を祀ったとされる歴史的に由緒ある山。

尚、この火打石の話は「記紀」にも出てきて、国造(いわゆる敵)がヤマトタケルに罠をかける為、野原にヤマトタケルを独りで向かわせて、国造は火を放ちヤマトタケルを焼き殺そうとした。

その際、倭国姫が渡した火打石を使って、向火をあげて火の勢いを止めた後、国造を滅亡させた。

この事から、この地を焼遣(やきづ)といい、古事記では相武(さがむ)国の話とされているが、日本書紀では駿河国焼津のこととしている。


この地は古代は鉄や銅の産地として名を馳せて、中世には金龍が現れて、龍の通った道筋に用水路が作られ水田で土地が潤うようになって(金龍伝説)、明治以降は養蚕業の神が宿る神社として敬われて、官幣中社となるまでに至った。

このような神的な雰囲気のある神社が埼玉県にあったなんて初めて知ったし、より上州~秩父・上武地方の古代を(出雲族や物部一族・渡来人などの進出なども含めて)調べてみようと、心から思った。


上州~上武紅葉の旅

武蔵國二宮 金鑚神社(かなさなじんじゃ) 
「道祖神達と神社周辺」



山頂の岩の上に腰かけて、ぼんやりと四方の景色を眺めていた。

上州から吹き付けてくる風はヒンヤリとしていて、日光で火照った身体を冷やしてくれる。

時間を忘れてただ無心になれる時なんてなかなかない。
とても貴重な時間であった。

そして下山。
急坂なので少し辛いが、のんびり歩く事にした。
すると数多くの俳句碑のなかに道祖神がひっそりと坐してました。

例えばこんなのや・・・

こんなの・・・

そして、こんなもの。

これが岐の神、賽の神といわれている道祖神の石像です。

そして苔に覆われた親子の蛙。
この石像を探せる参拝客はなかなかいないだろう。

石にへばりついた苔が、
時の経過を感じさせてしまう。

そして上を見上げれば木洩れ日の光が優しくボクに当ててくれている。
緑のグラデュエーションも鮮やか。
心からこの神社を参拝してみて良かった!

そして神社を後にした後、路線バスの待ち時間を利用して、神流川岸まで歩いてみることに。

神流川の先には「心霊スポット」として有名な神流湖(下久保ダム)
そして源流には日本航空墜落事故地点である御巣鷹山がある・・・。

神流川の水は、少し白濁としていて、とても不思議な雰囲気を醸し出している。

古代は、ここから多くの砂鉄が採取されていたとのこと。
何せ「神流の川」なんて名前なのだから・・・。

バス停の近くの長閑な風景
多分梅だよね・・・。

とても可愛らしくて、心が和みました☆

野原脇に建っていた廃屋。
どこかやるせなさと同時に建て直して住んでみたいな、と感じてしまいました。


次回は本庄金鑚神社とお祭りです♪

23 November 2010

上州上武紅葉の旅 武蔵国二宮 金鑚神社 本殿がない神社


上州~上武紅葉の旅

武蔵國二宮 金鑚神社(かなさなじんじゃ) 

高崎で泊まった安宿で、翌日の予定を考えていた。
武蔵國二宮である金鑚神社に行って、そのあとは、八高線沿線の神社巡りでもしようかと。

そして、高崎から本庄へ移動して、路線バスで金鑚神社へ向かったが・・・。

さすがに上り坂を10分以上歩く&歩道のない国道を歩くのは怖かった。
「この方向で大丈夫なのか?」と、自問自答していたら大鳥居を見つけた。

ここが、金鑚神社の入り口にある大鳥居。
「到着して良かった」という安堵感で胸一杯。

『武蔵二之宮』の社号標が威厳を感じさせます。

埼玉県には殆ど現存していないという中世建立の「多宝塔」を目指し、案内標識を頼りに山道を歩いてみた。

ここは二の鳥居。
時間が早い(恐らく10時より前)だったので、殆ど誰もいない。
紅葉もほんのりと色づき始めて、清々しい気分になった。

案内コースの「山道ルート」を歩いてみると、立派な祠を発見。
ここは蚕影山神社という地元の養蚕農家に信仰されていた神社だったらしい。

富岡を中心として、本庄~神川地区は、江戸末期~明治時代まで養蚕業で栄えていたらしく、明治時代初期では外貨獲得の中心だったらしい。
ヨーロッパでは「Japanese Silk」と命名されていた程、上質の繭から絹糸が作られていたらしい。

そんな神社を越えて山道を登っていくと、お目当ての「多宝塔」が鎮座していた。

天文三年(1534年)に阿保郷丹荘の豪族である阿保弾正全隆が寄進したもので、真柱に「天文三甲午八月晦日、大檀那安保弾正全隆」の墨書銘がある。
この塔は、建立時代の明確な本県有数の古建築である とともに、阿保氏に係わる遺構であることも注目される。 塔婆建築の少ない埼玉県としては貴重な建造物であり、 国指定の重要文化財となっているとの事。

多宝塔をあとにして、本殿を目指すべく向かうと、義経橋の先にある鳥居の向こうに社殿が。
『太陽のスポットライト』が効果的に照らしているせいか、とても神々しく見えてしまいます。

三の鳥居をくぐった先には神楽殿がひっそりと鎮座されていた。
このような神社が埼玉県にもあった事を知ってかなり感動!
やはり自ら足を運んで『体験』しないと、発見した歓びが分からない。

そして拝殿に到着。
金鑚神社は旧官幣中社であり、武蔵二宮と称される神社。
これは、氷川神社を武蔵一宮とする時期の二宮という意味で、小野神社が武蔵一宮であった頃には、
氷川神社は三宮、当社は五宮であったとの事で、鎌倉時代以降に格上げになったらしい。

拝殿の奥には、本殿・・・もとい中門が。
金鑚神社は、背後にそびえ立つ御室ヶ嶽が神奈備(御神山)としている原始信仰の続く古社。

現在の御祭神は、天照大神(アマテラスオオノカミ)と素盞嗚命(スサノオ)で、倭建命(ヤマトタケル)が合祀されている。

社伝によると、景行天皇の四十一年、日本武尊東征の帰途、東国鎮護のために、伊勢神宮の伯母である倭姫命から草薙剣に副えて、賜った火鑚金(火打石)を御霊代として、御室ヶ嶽に天照大神と素盞嗚命を祀ったのが創祀。

その後、欽明天皇二年に、日本武尊を合わせ祀ったという。

もともと金鑚の語源は、砂鉄を意味する「金砂(カナスナ)」に求められ、神社流域にある神流川周辺で刀などの原料となる良好な砂鉄が得られた為と考えられている。
カナスナ(金砂)が訛り、金佐奈(カナサナ)となり、今日では「金鑽」と書き、「かなサラ」と読むようになった。

さらに、魏志倭人伝に記述される2、3世紀頃の倭人の国の一つである華奴蘇奴(カヌソヌ)国の中心地とする説がある。この説によれば、武蔵国児玉郡神川村(現神川町)の金鑚神社を中心としたクニであったとの事。

尚、御嶽山(御室ヶ嶽)は、金華山ともいい、山腹に銅を彫ったあとがあるらしく、その銅は、黄鉄鋼を多く含んでおり、黄金色をしていたという。その銅採掘を神格化したと考える説である。
故に、当社の祭神を金山彦命であるとする資料もある。

上の写真は末社で19社が祀られている。

では、奥宮登山については次回にて。
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19 November 2010

上州上武紅葉の旅 上野国一之宮 貫前神社 「下り参りの一之宮」

上州~上武紅葉の旅
一之宮貫前神社 「下り参りの一之宮」




『一之宮貫前神社』は群馬県富岡市一ノ宮に鎮座する古社で、創建は安閑天皇の元年(531年)で、御祭神は、経津主神(ふつぬしのかみ)と姫大神(ひめおおかみ)の二神を祀っています。
尚、姫大神については一説によると、綾女庄(当地の古い呼称)での養蚕機織の神と云われています。
尚、本神社では、御戸開祭や鹿占神事など古からの祭儀が数多く残っています。

さてさて、上信電鉄で高崎駅から約1時間強。
最寄駅である上州一ノ宮駅に到着。

ホームにある御手製の駅案内を見ると、ほのぼのとした気分がします。

神社へ向かう道を進むと、派手な酒屋さんを発見。
『8本一億出た』のボードが店の所狭しと置いてありました。

歩く事約10分。
ようやく貫前神社の社号標を発見。

ここから急坂が続く。
上の写真で、ようやく中間地点。

「疲れたー」
と、思いながら後ろを振り返ってみると、何とも言えない美しい並木道が広がっています。

長い大鳥居までの階段を登っていくと・・・

立派な総門(惣門)が姿を現しました。

さて、総門の右に見えるのが「蛙の木」と呼ばれている木。
太平洋戦争末期、境内の銃ボクに蛙の形をした茸(サルノコシカケ)が出たのを、「勝ち蛙」と呼び多くの参拝者があり、現在は「無事蛙」と呼ばれ交通安全のお守りとなっています。

総門をくぐると、下りの階段が参道となっており、社殿を見下ろしながらの参拝となる珍しい形式で、「下り参りの宮」と言われています。
今までの神社の場合、門をくぐって社殿を見上げるというのが当たり前だったが、上から見下ろす社殿はなかなか新鮮。

左手には手水舎、中央は楼門、その奥に拝殿・本殿が。
これらの社殿は寛永12年(1635年)、徳川家光による再建で、徳川綱吉が大規模な修理をして現在に至ります。

下り参道の途中左手にあるのが、月讀社。
社殿は、寛永十二年以前の本社拝殿だったらしい。
明治時代の神仏分離までは「牛王堂」として祀られてきました。

御由緒として、御創建は社伝によると、碓氷群郡東横野村鷺宮(さぎのみや:現在の安中市)に物部姓磯部氏が、氏神である経津主神を祀り、その鷺宮の南方鏑川岸に至り、蓬ヶ丘綾女谷に社を定めたのが安閑天皇の元年(531年)と伝えられていまっす。 

天武天皇の時代(674年)に初の奉幣(ほうべい)がありました。
尚、奉幣とは天皇の命により神社に幣帛を奉ることです。

さらに醍醐天皇の延喜の制には名神大社に列せられ、上野国一之宮として崇敬を衆め、明治4年國幣中社に列格された由緒ある神社です。

現在の御祭神は、経津主神(フツヌシノカミ)と姫大神(ヒメオオカミ)で、日本書紀によると、物部の氏神で、天照大神の命を受け、武甕槌神(カケミカヅチ)と共に出雲國の大国主神より天孫のために国土を奉納(「国譲り神話」)させた神で、古来より武の神、建国の神として信仰されています。

姫大神は御名は不詳だが、恐らく綾女庄(富岡一之宮地方の古称)の神で、養蚕機織の守護神らしいです。

拝殿の後ろには、壮大な本殿が・・・見えない(涙)
どうやら、大改修期間らしく、白いシートで覆われていました・・・。

御祭神については諸説あり、抜鉾神社(経津主神)と貫前神社(姫大神)が別々にあったものを合祀して、2神1社とした説などがあるらしいです。
また、当時一之宮であった赤城大明神(赤城神社)が、財の君であるこの女神を他国へ渡してはならないと、女神(貫前神社)に一之宮を譲ったという逸話などもあります。


境内の奥にひっそりと鎮座する鳥居。
この先には、御神林、そして鏑川の支流、高田川へと続く。
広場のようなものが見えたものの、「神域」の立ち寄り難い雰囲気がしていたので引き返すことにしました。

小生自身としては、立派な社殿の被写体よりも、こういった苔の生えた道や小さな祠や鳥居といった景色のほうが、何故か強く心を動かされます。

さてさて、本殿を後にして、西門にある仮殿敷地及び摂末社の方へ。

日枝神社、そして奥には内宮・外宮が鎮座しています。
寛永十二年以前の本社本殿で、大己貴神・大山祇神を祭神とするお社。
古い貫前神社の本殿を移築したと伝わっています。

内宮・外宮は寛永十二年に天狗沢峰通字伊勢屋から遷座されたもの。
他にも二十二末社などがあった。

境内に立つスダジイと銀杏の大木。
スダジイは樹齢は1000年と推定され、幹は数本の枝幹が成長して重なり合った奇異な形をしています。
樹高15メートル根回り4メートル。

大鳥居脇の公園にある苔。
木から張り出された根のうねり具合が何とも美しいです。

そして、帰路へ。
西日が差した大鳥居。
とても美しい風景です。

大鳥居からの絶景。
色見がかった木々の葉。
そして、西上州の山々。

本殿さえ拝むことが出来れば、最高だったのに・・・と、少々後悔です。