28 March 2013

日本武尊御陵と思国歌 能褒野王塚古墳 と 白鳥塚古墳

今回は、能褒野の地で薨去なされた日本武尊の陵墓とされている能褒野王塚古墳と白鳥塚古墳の写真と、この地で詠まれた思国歌(国偲び歌)と、古事記記述の倭建命の薨去についてです。


日本武尊御墓参道の石碑


1.能褒野王塚古墳(能褒野神社)
能褒野墓 拝所
三重県亀山市にある能褒野王塚古墳および能褒野神社は、御幣川と安楽川の合流点に近接する標高45メートルの段丘端部に所在し、宮内庁により「能褒野墓(のぼののはか)」として第12代景行天皇皇子の日本武尊の墓に治定されている前方後円墳です。
北勢地方最大規模の古墳で4世紀末頃の築造といわれています。

能褒野神社の御祭神は日本武尊で、明治二十八年(1895年)地元の有志により日本武尊の遺徳をしのぶため、能褒野陵周辺で神社が創建されました。

思国歌
ヤマトタケルは東国征伐の後、尾張の国に戻り、火上の里の館(氷上姉子神社)に留まり、宮簀媛命と結ばれた。
ところが休息する間もなく、近江国伊吹山に棲む神ありと聞かれ、その賊徒平定のため神剣を媛にあずけて、伊吹山に向かった。

イノシシの姿をした山の神に祟られ身体不調となってしまい、居寤清水(いさめのしみず・・・関ヶ原の玉倉部の清水)を飲んで少し体調が回復したものの、伊勢国の杖衝坂を越え、三重村に着いた時には、「三重にくびれた餅」のように足が腫れ上がってしまった。

能褒野神社参道

そして、能褒野に到達したときに、故郷(大和)を偲んで思国歌(くにしのびのうた)を歌った。

やまとは 國のまほろば  たたなづく 青垣 山隠れる やまとし美し
命の全けむ人は 疊薦 平群の山の 熊白檮が葉を髻華に挿せその子
愛しけやし 吾家の方よ 雲居起ち来も
孃子の 床の邊に 我が置きし つるぎの大刀 その大刀はや

能褒野神社境内

(現代語風訳)
大和は最も良い国、青垣のような山に囲まれ、大和は何と美しい国。
生命に満ちた人々よ、大和の国の平群の山の立派な樫の木の葉を髪飾りにしなさい、お前よ
おお、懐かしい。我が家の方から雲が立ち昇る。
姫の床にあたりにわたしが置いて来た太刀。
ああ、あの太刀は・・・。

と詠み、ついにヤマトタケルは息を引き取った。

能褒野神社 社殿

ヤマトタケルの死は早馬により大和に伝えられた。
后や御子たちは伊勢の能褒野へ降り、御陵を作り、泣きながら歌を歌った。

なづきの田の稻幹に 稻幹に葡ひ廻ろふ 野老蔓
(御墓の周りの田の稲の茎にとりつく山芋のつるのように 私はとりついていたい。)

2.白鳥塚古墳
白鳥塚古墳(鈴鹿市)は、帆立貝式前方後円墳で5世紀前半に築造された鈴鹿川流域の墳墓で、周辺に日本武尊を祀る加佐登神社が鎮座しています。

江戸時代~明治初頭まで本居宣長や平田篤胤ら国学者の多くが、ここ白鳥塚を古事記にある『ヤマトタケルの能褒野陵墓』として最有力視していました。
しかし、明治当時の宮内省がそれを覆して、亀山市の丁子塚がヤマトタケル陵墓(能褒野王塚古墳)とされました。

石碑
(・・・つづき)
そのとき、ヤマトタケルは大きな白鳥となり大空へ羽ばたき、海辺に向かって行った。
后や御子は足を傷つけながら白鳥を追いかけ、歌をうたった。

淺小竹原 腰なづむ 空はいかず 足よ行くな
(笹しげる篠原を行こうとしても腰にまかれて足をとられるばかり、空を飛んでいきたくても足で行くしかありませぬ。)

白鳥塚古墳
后達は海へ入り、
海處行けば 腰なすむ 大河原の 植ゑ草 海處はいさよふ
(海を行こうとするならば、足をとられ 大河の草のように海を行こうとするならば、ゆらゆらするだけ)
とうたった。

拝所
濱つ千鳥 濱よは行かず 磯傳ふ
(磯の上に白鳥が降り立った時にも
浜の千鳥は浜からは行かずに荒磯づたいに飛んでゆく。)

飛び立った白鳥は河内の国の志幾(しき)にとどまった。
そこでその地にヤマトタケルの御魂を祀るための墓を作った。
この墓を白鳥の御陵という。

しかし、程なく白鳥は大空高く飛んで行ってしまったそうな。

~おしまい~

白鳥塚古墳へ参拝していた時、頭上でカラスの大群が円を書いて飛んでいました。

次回は、『カラス』の名を冠したお社です。