(東京都あきる野市五日市1081番地鎮座)
出雲祝神社からバスで八高線金子駅に到着。
この後青梅線沿線の式内論社を巡ろうかと思いましたが、五日市線に乗り阿伎留神社に向かうことにしました。
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社頭 |
創立年代は不詳で、現在の祭神は大物主神、相殿に味耜高彦根神・建夷鳥神・天児屋根命を祀っております。
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社標 |
阿伎留神社の地域はかつて小塩と称されていたが、現在は(旧住所だと)五日市字松原ヶ谷戸に鎮座しています。
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境内 |
しかし、天保元年の五日市大火の際に社叢が類焼してしまい、かつてほどの規模ではなくなったといいますが、充分すぎるほど鬱蒼とした鎮守の杜です。
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拝殿 |
延喜式内阿伎留神社 由緒略誌
御祭神
大物主神
味耜高彦根神
建夷鳥神
天児屋根命
社名
阿伎留、畔切、秋留と三様に欠くが皆「あきる」と読む。正式には延喜式に載るとおり阿伎留神社である。
また、鎮座地により松原大明神とも称し、江戸時代中期一時春日大明神と呼ばれた。通称は松原さまである。
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社殿 |
由緒
創立起源不詳。延喜式では武蔵国多摩郡八座の筆頭にあげられている。また、三代実録元慶八年秋七月十五日の条には武蔵国正五位下勲六等畔切紙に従四位下を授けた旨が記載されている。いずれにしても武蔵国内著名の古社で朝野の崇敬篤く以後も定時の奉幣加階が行われた。
また武将の信仰も広く、藤原秀郷は平将門征討に際し戦勝祈願し鎌倉時代以降も源頼朝、足利尊氏、のち北条氏もそれぞれ社領を寄進した。
徳川家康は江戸入府の翌年天正十九年十一月武蔵国多西郡秋留郷松原の内で十石の土地を寄進し以後代々の将軍はこの先例に従ってその朱印十二通を現存している、明治以降神社制度の確立に伴いいち早く郷社に列格し更に明治四十年五月神饌幣帛料供進神社に指定された。
戦後昭和二十九年四月宗教法人となった。
社殿は天保元年の五日市大火に類焼し本殿、拝殿、付属殿舎尽く焼失した。そこで幕府に請うて江戸府中武蔵一国の勧化許可を受け資金資材の準備を進めたが建設までには至らず明治二十一年十一月漸く現本殿拝殿の再建が成った。
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本殿 |
末社
大鳥神社、若電神社 熊野神社を合祭する
菅原神社 小川神社 占方神社 倭建命神社と合祭する
日枝神社 伊多弖神社 松尾神社 平野神社 庭津日神社 国造社を合祭する
稲荷神社 松原稲荷神社 白光稲荷神社 稲穂稲荷神社 琴平神社 境外末社入野峰山頂に祀る
熊野神社 境外末社中入野熊野山に祀る
上のうち若電神社と伊多弖神社は三代実録に載る古社である
(以上、境内案内板より)
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神輿庫 |
まず、写真左は西方を守護する白虎、右は東方を護る青龍。
そして、下の写真左は北方玄武、右は南方朱雀でしょうか?
なかなか、こういった像を見ることができないので、こうやって公開して下さると勉強になります。
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本殿裏の古井戸 |
また、「寛永年間ゆへありて春日明神を称し始めしとて瓧内に春日大明神の五文字を扁額せり」ともあり、天児屋根命を祭神としたのは、吉田(唯一)神道の影響が強かった近世の頃だったのではないか、ともいわれてます。
さらに、大物主命を祭神としたのは、明治時代に社殿を再建した際に、産業発展を祈願して、祭神を大物主命に変更したのでは?ともいわれております。
左:占方神社 右:祓戸社
境内末社についてです。
「卜庭神」である櫛真智神を祀る占方神社と社殿左側に鎮座する祓戸社が坐してます。
占方神社に関連しますが、阿伎留神社では少なくとも近世まで卜占神事が行われたといいます。
今も本神社に残る元禄十一年(1697)『神伝鹿卜秘事記』の写本や絵巻物「阿伎留神社年中十二祭」に、その様子が描かれているらしく、当方所有の神道関連の本にも写真で絵図や「マチカタ」が紹介されています。
左:大鳥神社・若電神社・熊野神社 右:倭建命神社・菅原神社・小川神社
左:天満宮 右:稲荷社
上記以外にも多くの祭神不明の石祠が点在しておりました。
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神楽殿より境内を望む |
ちなみに、味耜高彦根神を祀るお社は、当ブログでは馬場都々古別神社(福島県)、二荒山神社(本宮神社)などがあります。
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境内より秋川渓谷をのぞむ |
とても牧歌的な風景で心が和みます!
おまけ
せっかく秋川渓谷に来たので、神社までの道中を色々写真に収めてみました。
あきる野市キャラクター「森っこサンちゃん」がお出迎え。
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武蔵五日市駅ホーム |
駅ロータリーから歩いてすぐに秋川渓谷へ行くことができます。
天気のよいゴールデンウィークだったので、たくさんの観光客がいらっしゃいました。
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阿伎留神社御旅所跡 |
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五日市の市神様 |
暫くの間、阿伎留神社の境内に遷されていましたが、近年ここに安置されたようです。
五日市の市神様
所在地 あきる野市五日市110-1番地
五日市の市のはじまりは定かではありませんが、中世末の文書に「五日市」の文字が見られ、この頃には近隣地域の物資交流の場として市が開かれていたと考えられます。
江戸時代になると、大消費地江戸の広域商業圏に取り込まれ、炭の市として栄えました。当初は五の日の三斎市(月に3回の市)であったものが、十の日を加えて六斎市になったと考えられます。
この市神様は、自然石をそのまま用いたもので、かつては五日市の市の中心に祀られ、市の発展を見守っていました。
都道の拡幅に伴い阿伎留神社の境内に移されていましたが、五日市ひろばの整備に際し、五日市商店街の振興と地域経済の発展を願ってこの地に安置されました。
平成十六年三月二十六日設置
あきる野市教育委員会
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阿伎留神社脇の丘 |
次回は一気に南武線の古社へ向かいます♪