8 July 2018

武蔵の式内社 奈良神社 埼玉県北に鎮座する「奈良之社」

奈良之神社
(埼玉県熊谷市中奈良1969鎮座)

社叢
奈良神社(ならのじんじゃ)は熊谷駅から北へ約6キロ、国道407号線から少し西に入ったところに鎮座しており、延喜式神名帳にて『武蔵国幡羅郡 奈良神社』に比定されているお社。
麦畑の先に見えるこんもりとした社叢がとても美しいです。

ニ十二夜待供養
熊谷駅から中奈良バス停までバスで向かい、神社へ歩いていると道端にこのような石像が所々残されております。
台座には「宝暦十二年(1762年)三月 ニ十二夜待供養」と刻まれていました。

参道と石鳥居
本神社の御祭神である奈良別命は崇神天皇の皇子豊城入彦命(上野国・下野国の祖)の四世の孫に当り、仁徳天皇の御代に下野国の国造に任ぜられ、田畑の開墾とクニ造りを行ったといわれています。

両部鳥居
中世、本神社は熊野信仰の影響を受け、社名を奈良神社から熊野神社に変更。
変更の理由については、熊野神社を合祀したためか、あるいは奈良神社が別の地にあったが、破壊により熊野神社に合祀されたためかのいずれかと『武蔵国風土記稿』に記されています。

拝殿
戦国時代以降、別当が円蔵坊から長慶寺に遷り熊野神社と称していたが、江戸時代後期に復古思想隆盛のなか、社名を古代の奈良神社に復し、明治期に入ると、当社本殿の熊野神の本地である弥陀・薬師・観音の三尊は、長慶寺に移され、代わって神鏡が奉安されたといいます。

天保年間作成の扁額
延喜式内社 奈良神社の由緒
御祭神 奈良別命
奈良別命の由緒
「奈良別命は、崇神天皇の皇子豊城入彦命(上ッ毛野国・下ッ毛野国の祖)の四世の孫に当り、仁徳天皇の御代に下野国の国造りに任ぜられ、武蔵野の沃野に分け入り、その徳によって荒地を拓き美田を墾し、人々の発展と安住の地を作られた。そのため、郷民がその徳を偲んで奈良神社を建立し祀ったものである。」と国造本記に記されてあります。

美しい社殿
奈良神社の神威
「奈良神社の御祭神には、後光が射しており、或る時奥州で蝦夷の反乱があったので、これを征討するため奈良神社の神霊を奉じて出兵し、転戦しつつ進んだが向かうところ敵なしの状態で年老いた者や身体の弱い者も同行したが、御祭神のお陰で全員無事であった。」と検古記に記されております。
さらに「奈良神社の境内から忽然として水が湧きだし、これにより600余町歩が水に恵まれた水田となった。また、病人が出るたびに奈良神社に祈ったところ、すぐに後利益があったので、人の生命に係ること故、皆が御祭神を家庭にお招きし大切に崇めた。この習慣が今なお続いている」と同じ検古記に記されております。

本殿
古文書の出展
国造本記
慶雲二年(705年)文武天皇の御代の記述
検古記
和銅四年(711年)元明天皇の御代の記述
合祀各社(明治四十三年 本殿合祀)
諏訪大社(火産霊神・西田)、愛宕神社(火産霊神・奈良新田)、諏訪社(建御名方命・久保)、年行社(大国主命・後原)、神明大神社(大日孁貴神・善能寺)、箱根神社(彦火火出見命・葉草)、浅間社(木花咲耶姫命・原)、八坂神社(須佐之男命・中妻)、伊奈利神社(豊宇気毘売神・二ツ道)
信仰
この地域の開拓の祖神として地域の氏神さま、そして創業(事業)守護・厄除け・交通安全・家内安全
(以上、境内案内板より)

末社
境内には国魂神社、八坂神社、怡母社、金山社、天神社、伊奈利社が祀られています。

堅牢墜神の石碑
境内社の脇には「堅牢墜神」と刻まれた安政四年建立の石碑が建っていました。
地神塔はよくお寺などで見かけますが、仏教の教えが弘められているところにおられて、信仰する人、正しい行いをする人を守り、邪念を戒める大地の神様の塔のこと。

安政期に地神塔がここに限らず関東地方に多く建てられているのは、きっと安政時代に各地で発生した大地震に代表される天災や幕末の政治動乱が関係しているのではないか?と推測します。

長慶寺の山門
神社の隣にはかつての(今も?)別当であった長慶寺があります。
ポツンと置かれた山門や鐘のない立派な鐘楼もあり、かつての面影を偲びます。

脇にはひっそりと庚申塔や廃仏毀釈時代の影響か頭部がもぎ取られた石仏が立っていました。

境内
本神社から少し北に進むと、「日本三大聖天」と称する埼玉県唯一の国宝建造物妻沼聖天山もありますので、併せて参拝されるとよいかと思います。