21 October 2018

若狭の社 鵜の瀬 「御食国」小浜湾の夕暮れ

鵜の瀬
(福井県小浜市下根来鎮座)

遠敷川は滋賀県境にある若狭國最高峰である百里ケ岳から小浜湾に流れている川。
この川に沿って若狭國一ノ宮若狭彦神社、若狭姫神社が鎮座しており、さらに中流の下根来(ねごろ)には鵜の瀬と呼ばれる川辺の淵があります。

鵜の瀬
この地は若狭國一ノ宮の御祭神若狭比古神と若狭比賣神が垂迹した地とされていますが、それ以上に『お水送り』の儀式が執り行われる地としても有名です。

参道脇に祀られている小祠
『お水送り』とは、近くの神宮寺の閼伽井戸から汲まれた霊水を汲んで、ここ鵜の瀬に流すと東大寺二月堂の若狭井へ届くといわれる儀式のこと。
由来について要約すると・・・
『魚を採っていて二月堂への参集に遅れた若狭の国の遠敷明神が、お詫びとして二月堂の畔の若狭井に清水を涌き出ださせ観音さまに奉った』ことが始りとされています。

興味深いのは僧侶が閼伽井戸の霊水を汲んで鵜の瀬に注ぐ儀式を行い、神人(遠敷明神)霊水を鵜の瀬から二月堂まで送るお勤めをする点です。

神仏習合を象徴するような行事がこの地にて1300年以上前から行われていることに驚きを感じますが、同時に何故わざわざこの地にてこのような重要な行事が執り行われているのか?という疑問も起こってきます。

名水ということであれば、京都や吉野といった地でも事足りると思いますし、わざわざ数百キロ北に離れたこの地で行う必要があるのかな、とふと思いました。

東大寺開山の僧である良弁が若狭國下根来の出身だったから(出生に関して諸説あり)、朝鮮や中国大陸への海上交通の要地で、仏僧や建築関連の職人の流入がこの地を経由してやって来たから等々・・・。
色々考えてみましたが、よく分かりません。
しかし、「遠敷明神が鮮魚を獲っていて云々」という由来から若狭国が「御食国」としてヤマト朝廷から重要視されていたことは間違えないようです。

史跡
「鵜の瀬」由緒記
天平の昔、若狭の神願寺(神宮寺)から奈良の東大寺にゆかれた印度僧実忠和尚が大仏開眼供養を指導の后天平勝宝四年(753)に二月堂を創建し修二会を始められてその二月初日全国の神々を招待され、すべての神々が参列されたのに、若狭の遠敷明神(彦姫神)のみは見えず、ようやく二月十二日(旧暦夜中一時)過ぎに参列された。
それは川漁に時を忘れて遅参されたので、そのお詫びもかねて若狭より二月堂の本尊へお香水の閼伽水(あかみず)を送る約束をされ、そのとき二月堂の下の地中から白と黒の鵜が飛び出てその水を汲む行事が始まり、それが有名な「お水取り」である。
その若狭井の水源がこの鵜の瀬の水中洞穴で、その穴から鵜が奈良までもぐっていったと伝える。
この伝説信仰から地元では毎年三月二日夜この淵へ根来八幡の神人と神宮寺僧が神仏混淆の「お水送り」行事を行う習いがある。
小浜市

若狭一の宮 彦の神・姫の神降臨の地
霊域 鵜の瀬
神代の昔、神使の鵜の奉迎のもと、先ず若狭彦の神、次いで若狭姫の神が降臨されたと伝えるこの鵜の瀬は、のち永久鎮座の地、遠敷の里に鎮座して遠敷大明神と称え奉られた。
一の宮の夫婦神の御神威が赫々と奈良の都にまで光被するのに伴い、いつしか自然発生的に奈良の二月堂の水の源となり、古来京阪地方より遥々尋ね来る人が絶えないのである。
(若狭彦・若狭姫神社飛地案内)

遠敷川沿いには『鯖街道』最短ルートである鞍馬街道が走っており、百里ケ岳を越えれば近江國に出ることが出来る好立地。
さらに遠敷は小浜から今津~大津を経る若狭路、小浜から深見峠を抜け京都に入る周山街道、そして鯖街道など、古くより多くの古道が発展してきた通商の要地でした。

小浜湾
そして遠敷川は北川と合流して天然の良港である小浜湾、そして日本海へ流れています。

どこかの文献で、瀬戸内海経由で今の大阪・京都・奈良などの畿内に入ったのは8世紀後半以降からのことで、それまでは比較的穏やかな日本海ルートを利用して、一日毎に停泊を繰り返して進んでいた、というのを読んだことがあります。
それを裏付けするかのように、北九州から敦賀までの日本海側の入江・河口には数十キロごとに古社や遺跡が点在しています。

美しい小浜の夕暮れ
『鯖街道』で有名な若狭国ですが、さばとは「旅泊」の呼び名でもあります。
きっと日本海の港は、もともと交易船の旅泊地として都市国家が形成されはじめ、諸外国との連携や他都市国家との争いなどで栄枯盛衰を繰り返していったのかな?

と、美しく穏やかな小浜の夕暮れを眺めながら古代の浪漫に想いを馳せていました。

次回も若狭国の古社巡りです♪