2019年8月21日

能登の式内社 羽咋神社 と 羽咋七塚

羽咋神社
(石川県羽咋市エー164-2鎮座)
御祭神 石衝別命
相殿 石城別命・弟苅幡刀辨命
延喜式神名帳「能登國羽咋郡 羽咋神社」

社頭
羽咋神社は垂仁天皇の皇子で羽咋地方を平定した石衝別命を主祭神とし、石衝別命の王子で羽咋国造となったといわれている石城別命と垂仁天皇の妃神で石撞別命の母神である弟苅幡刀辨命を相殿として祀っている神社です。
尚、羽咋神社を中心に石衝別命や妃の三足比咩命、その御子の石城別王に纏わった通称『羽咋の七塚』が点在しています。

社殿
磐衝別命は垂仁天皇の皇子で神櫛別命とも称され、『古事記』では「三尾君の祖」、日本書紀には、「羽咋君・三尾君の祖」として羽咋氏・三尾氏が後裔氏族と記されており、磐衝別命の母神である弟苅幡刀辨命(綺戸辺・カニハタトベ)は『顔かたちがよい美人な山背國不遅(オホクニサラス)の娘』という記載がなされています。
「三尾君」を祖を祀る社は、滋賀県高島市鎮座の名神大社・水尾神社があります。

諸記録によると、垂仁天皇の御代、古志・蝦夷などの土寇が今の陸奥出羽から北陸道地方へ侵入したため、天皇の勅命によって石衝別命が派遣され、要害の地に城堡を築いて兵を集め鎮圧し、その後在地93年に亘って羽咋地方を統治して、なんと158歳!まで生きていたとあります。
その後当地を治めた羽咋君一族が、祖先の石衝別命を氏神として祀ったのが当社の由来とのことです。

扁額
石川縣能登國羽咋郡羽咋町大字羽咋
羽咋神社
祭神 石衝別命
相殿 石城別命、弟苅幡刀辨命
當社は垂仁天皇の皇子石衝別命及王子王孫なる羽咋國造を祭れる神社にして、當郡名かに於ける最も大切なる始祖の神とす。神名帳に羽咋神社とありて、祭神石衝別命は日本紀三十四年春の條に
「喚 綺戸邊 納于後宮 生 磐衝別命 是三尾君之始祖也。先 是娶 山背苅幡戸邊 生 三男云々」とあり、
又相殿石城別命は神名帳考証に、
「神櫛別命(亦名石衝別命)國造本紀云羽咋國造泊瀬朝倉御世三尾君祖、石衝別命兒石城別王定 賜國造」
又古事記に
「羽咋國造 雄略朝三尾祖石衝別命兒石城別王定賜國造」
とありて、祭神石撞別命の兒石城別命の羽咋國造なる事知らる。又姓氏録を見るに、羽咋君は垂仁天皇皇子磐衝別命之後亦神櫛別命ともあり。

拝殿内
而して石衝別命及羽咋國造を當社に祭祀する所以は、諸記録によるに、垂仁天皇の御代古志の蝦夷 肅愼満洲などの土寇、今の陸奥出羽より北陸道地方を侵ししかば、命のすぐれて勇武絶倫なるを以て、勅して北陸の藩鎮たらしめらる。命當國に下り、要害の地に城堡を築き、壯丁を集め、武事を奨め以て、諸寇を戡定し事平らぐの後迄久しく是土に留り、衆庶を撫育し給ひしかば、是より風雨順に百穀豊熟し、風俗淳に庶民安堵す。
かくて在治九十三年百五十八歳にして薨去せられしかば、人民其徳を慕ひ、羽咋神と称し、御陵を築きて其骸を奉奠す。御陵山即ち是也。
後王子石道別王、王孫石凝別王、其旨を承けて留りて此國を治し、四世の孫磐城別王に至り、朝廷之を羽咋國造となし、弟大兄彦王を加賀國造となし、共に皇祖の遺訓を奉じて庶民を清励鎮撫せしめらる。其後裔三尾君となり、世々國造を勤めらる。此れ士民其の恩澤に感じて石衝別命其子孫を祭祀する所以也。よりて清和天皇貞観二年に別格の神位を進められ、醍醐天皇の朝祈年国幣の社格として延喜式に乗せ、後歴朝國司の崇敬絶える事なし。

本社殿は石衝別命の山陵の頂に造営し祭儀等頗る厳なり。而して明治十四年十月十二日縣社に列せらる。又其の山稜の付近に三場七塚と称するものあり。三場は弩師を置き或は燈臺をおきて守備せしめたる跡にして、羽咋濱の落場、百官谷燈籠谷の三也。七塚は大塚、大谷塚、姫塚、寶塚、痛子塚、八幡塚、水火塚にして皆山稜に據を有する者也。又別に唐戸山には石撞別の御陵墓を造るに當り、土を取りたる所なれば、毎年八月五日命薨去の日を以て報恩祭とて盛大なる祭儀あり。其當日は命治國の際壯丁に勤め賜ひし由緒を以て相撲會を開き、来會社十式萬、唐戸山相撲とて其名近縣に響けり。本祠は輪奐の観を缺けども、粛穆の容は人をして悚然敬を起さしめ、祠を繞る古樹鬱蒼として皆千有餘載を経と称せらる。
建物には本殿、拝殿、神饌所、幣殿、神器庫、社務所あり。境内廣く2125坪あり。
境内社 古登比羅神社
(明治神社誌料より) 
羽咋神社
和名抄、郡名部羽咋、波久比。祭神石撞別命(神社帳)。羽咋村に在す。
古事記、垂仁段、「又娶 大國之淵之女弟苅羽田辨、生 御子石撞別王、羽咋君之祖」
姓氏録、羽咋公、垂仁天皇皇子磐衝別命之後也。
(神社覈録より)

羽咋の七塚
当地羽咋市には、羽咋神社を中心にして、この地方を平定した第十一代垂仁天皇の皇子石衝別命、妃の三足比咩命、その御子の石城別王にまつわる塚が点在しており、羽咋神社内には磐衝別命とその御子神石城別命の墳墓と推定されている古墳があります。

垂仁天皇皇子磐衝別命墓
(大塚・御陵山)
大塚(御陵山)
羽咋七塚の一つ。石衝別命(垂仁天皇の皇子・羽咋神社の御祭神)のお墓で大正六年(1917)に陵墓参考地に指定されました。
長さは約100メートル。県下最大の前方後円墳、五世紀中頃の築造で盛土は唐戸山から唐人(韓国人)が運んだと伝えています。
また『古墳の上に老松があったが、宝暦の雷火で焼けたため宝倉を建て、まわりの堀を埋めた。文化年間に宝倉を羽咋神社の本殿に改築した時、石室が発見された』との記録もあり、本念寺の裏庭にある天井石から横穴式石室であろうと考えられています。
(境内案内板より)

石城別王陵墓
(大谷塚)
大谷塚(王児塚・観音塚)
羽咋七塚の一つ。長さ45メートル、高さ七メートルほどの円墳で石衝別命(羽咋神社の御祭神)の御子・石城別王の墓と言われています。初めは七十メートルほどの前方後円墳であったのが、隣りの本念寺に削り取られて円くなったとの説や、この古墳と大塚とを一つの古墳と考え、大谷塚はその前方部でなかろうかあとの説があります。
ここを大谷塚と呼ぶのは、本念寺の墓所が近くにあるためで、観音塚と言うのは大正六年の陵墓御治定まで、墳丘上に羽咋の開発土豪稲荷一族の稲荷社(御神体は観音様・現在は本町の稲荷神社)があったためです。
(境内案内板より)

鳥居脇の御神木
多くの方々が境内で作業していたので、邪魔にならないようにササっと参拝を済まました。機会があれば羽咋の町を含めて本神社を再訪したいです。